町外れの古びた邸宅。その一室で、彼は居心地が悪かった。見知らぬ場所だからというのではない。すでに幾度となく、彼はこの部屋に来たことがあった。柱のゆがみも壁の染みも、畳の表の感触さえも目新しいものは何もない。それだというのに彼はこの部屋にいるだけで、言いようのない居心地の悪さを感じるのだった。落ち着きなく歩き回ってみても、ただじっと座っていても、空気が重くのしかかってくる。だからといって部屋を出ることも、話し相手を呼ぶことさえも、ひどく気が咎めるのだった。だから彼は、この居心地の悪い部屋のなかで、時が過ぎるのを黙って待つしかなかった。
キム・ジェンファン。某アカデミーの学生であり、駆け出しの歴史学者――。それが彼の名であり、肩書きだった。歳はようやく二十を過ぎたばかり。しかし東洋人の多分に洩れず童顔であるその顔は、少年のようにも見えるのだった。勉学に励むものの常というべきか大きな眼鏡をかけ、それでかろうじて歳相応の相貌を保たせている。同年代の男性と比べて体の線は細かったが、その肌は不釣合いなほど陽に焼けている。それはこの町を訪れた理由が遺跡の発掘であり、事実そのための生活を彼が送ってきた証でもあった。だが、その生活もじきに終わる。数日のちには、彼は二年余りを過ごしたこの町を出ていくのだ。
アカデミーのある町までは、馬車を乗り継いでも三月はかかる。家財一式の荷物は送り届け、生活の場だったテントも引き払った。手元にあるのは、身の回りのわずかの品だけ。知人の好意により、彼は残る数日をこの橘邸で過ごすことになったのだった。
町でも珍しい東方風の一軒家。周囲はぐるりと生垣に囲まれ、庭には土蔵も配されている。裏手はそのまま森へと接し、夜ともなれば人足も絶える寂しい場所に在る家だったが、その静けさも彼は嫌いではなかった。もちろんこの家の住人とも、良好な関係を続けている。普段であれば、居心地の悪さなど感じるはずもない。
しかし今は話が別だ。この家の主である橘
由羅は、ふらりと出かけたまま暗くなっても帰ってこない。彼とともに家にいるメロディ・シンクレアも、台所に行ったきりだ。客人として迎えられているとはいえ、居候に近い身の上。一番湯をもらい、糊の利いた浴衣で部屋に通されては、身の置き場に困るというもの。別離を惜しんでの待遇なのだと察することはできようとも、それに甘えて尊大に構えられるほど、彼は図々しくはなれなかった。
本でも持ってくればよかったか。
読んでも落ち着きはするまいが、彼はそんなことを考えながら部屋のなかを見回していた。
「キムちゃん」
ふすまが開いて、少女が顔をのぞかせる。料理は終わったのだろうか。白いエプロンは、いまだ外されてはいない。一人きりの状況から解放された彼は安堵の表情を浮かべ、それから慌てて居住まいを正した。
「おしょくじですよ〜」
「ありがとうございます、メロディさん」
両手で膳を抱えて歩み寄ってくる少女に、彼はぺこりと頭を下げた。人懐っこい笑顔とどこまでも澄んだ露草色の瞳。珊瑚色の髪からのぞくのは、なんとも特徴的な猫のような耳だ。歳に似合わず発育した身体とそれを包む青いメイド服が、男の心を強くひきつける。この少女こそこの家の住人の一人、由羅の妹メロディ・シンクレアだった。一歩踏み出すごとに、チョーカーについた鈴が音を立て、スカートからのぞく白い尻尾が左右に揺れる。
彼の前に膳を据えると、向かい合うように彼女も腰を下ろした。
「はい、ど〜ぞ」
「はあ……」
笑顔いっぱいのメロディに対して、彼の返事は気乗りしないものだった。いつもなら、料理はテーブルいっぱいに並んでいる。しかし今日は、小さな食膳がひとつだけ。どう見ても一人前しかない。ということは、用意されたのは彼の分だけということだ。
「えっと……メロディさんは？」
尋ねると、「おねーちゃんがかえってきてから」と、メロディは事もなげに答えた。陽が暮れて随分たつ。時間からいって、おなかが空いていないはずはないのだが。
「それなら、僕も後で」
いかに客人扱いとはいえ、先にひとり食事を終えるわけにもいかず、彼はそういって断りを入れた。途端に、メロディの顔が悲しそうに沈んだ。
「キムちゃん、おなかすいてないの？」
外見こそ十五〜六歳のメロディだが、その心はずっと幼い。おなかが空いているだろう彼のために作った料理を、自分の気持ちを拒絶されたように感じて、彼女は少し涙ぐんだ。
慌てたのは彼のほうだ。なにも食べないとは言っていない。おなかだって空いている。味には定評のあるメロディの手料理、むしろ喜んで食べたいくらいだった。しかし一人でとなるとやはり気が引ける。彼女が一緒に食べてくれるのなら、遠慮することはなかったのだが。
今にも泣きそうなメロディと一汁三菜の膳を見比べ、彼はようやく「少しだけ」と箸を手にした。
三つ葉と柚子皮の入ったお吸い物。根菜の煮物に山菜の煮浸し。角皿に載っているのは、川魚の塩焼きか。
さんざんあれこれ迷ってから、彼は煮物のなかの大根の一欠けを口に運んだ。
「美味しい……」
そんな言葉が自然と出てくる。
メロディの顔が、パッと輝いた。
「ホント？」
「…………」
無言でうなずき、彼は切り分けた大根をもう一欠けだけ口へと運んだ。箸でつかめるだけの程よい固さ。絶妙の味加減。文句の付け所などありはしない。家庭料理としてだけではなく、店で出してもじゅうぶん通用するだろう。
顔を上げると、徳利を手にして彼女が微笑んでいた。
「どーぞ、いっこん」
一体どこで覚えたのか。彼は戸惑いの表情を浮かべたが、箸を置いて逆さになっていた猪口を差し出した。
トクトクトク……
白い毛の生えた手で器用に徳利を傾け、メロディは猪口のなかへと酒を注いでいく。揺らしただけで溢れるほどなみなみ注がれた燗酒を、彼は舐めるように少しすすった。
「ん……！」
成人しているとはいえ、彼は進んで酒を飲む人間ではない。そんな彼でも、この酒の銘柄はすぐにわかった。すっきりした飲み口、しっかりとした米の味。人肌程度に温められた清酒は、普通のものよりわずかに強い。いままで飲んだことのあるなかでも、彼が一番気に入っている酒だった。由羅が買い貯めていたうちの一本なのだろうが、まだ酒の飲めないメロディがどうして彼の好みを知っていたのか。
残りの中身を一息に飲み干し、彼は再び猪口を差し出した。心得た様子で、メロディが酒を注いでくれる。その間に、彼は食膳へと目を落とした。もとより何でも食べる彼だが、嫌いな料理は一品もない。食材の一つ一つが厳選され、下ごしらえにも手抜きはない。酒の銘柄だけではなく、料理の味付けから組み合わせまで、すべてが好みを押さえてある。他の誰でもない。この料理は最初から、彼だけのために用意されたものだったのだ。酒を口に含みながら、彼はそのことに思い至った。
「本当に、美味しいですよ。メロディさん」
猪口を置き、身をほぐすように魚に箸を入れる。
「この塩焼きも、ちょうどいい焼き加減ですし」
そういって微笑むと、メロディは嬉しそうに頬を赤らめた。
時間はゆっくりと流れていく。しばらくの間、二人は一言も口を利かなかった。無言のまま料理を運び、そこに浮かぶ幸せそうな表情をただ見つめる。時にお酌をしてもらい、酒をあおるだけの時間。膳を挟んだこの距離が――同時に手を伸ばすか身を乗り出さなければ触れることもかなわぬこの距離が、遠くもなく近すぎもせず、今の二人には心地良かった。
「ほかに、ほしいものはありますか？」
二本目の徳利が空いたとき、メロディはそういって彼に尋ねた。
「そうですね……」
食膳に目を走らせ、しばし考え込む。お酒はじゅうぶんに飲ませてもらった。料理はまだ半分近く残っている。これ以上、望むものはない。強いてあげるとするならば――。
「それじゃ、お茶――」
言いかけて、彼はハッと押し黙った。怪訝な様子で、メロディがその顔を見つめる。きまり悪そうに目を泳がせ、彼は無理な笑顔を作った。
「お水を一杯、いただけますか？」
「はーい！」
明るい返事を残して、メロディが駆けていく。その背中をふすまの向こうへと見送り、彼は眼鏡を持ち上げ眉間を押さえた。礼をしなくてはならないのはこちらの方だ。これ以上甘えてはいけないと、ずっと自分に言い聞かせてきたはずだった。雰囲気に流されたか、それとも酒酔いのせいなのか。自制が緩み始めている。
調子に乗るな！
自分自身を叱罵して、彼はこぶしを畳に叩き付けた。
ふすまを閉めたメロディは、パタパタ足音を立てながら廊下を走っていった。最初は元気よく、だが徐々に歩幅が小さくなっていく。台所につく頃には、動きはのろのろとしたものへと変わっていた。胸のなかで重たいものが膨らんでいく。ざわざわと心に小さな波が立つ。料理の熱と匂いの残る薄暗がりを、彼女は灯りもつけずに進んでいった。
勝手知ったる台所、どこに何があるのかは、目を閉じていてもすぐにわかる。棚からグラスを取り出して水道の下に置くと、彼女は片手で栓をひねった。キイッという軋みに続いて、蛇口から水が流れ始める。音を立てて水を受け止めていたグラスはすぐにいっぱいとなって、余剰を外へと溢れさせた。
うつむいていたメロディの両目から、大粒の涙がこぼれた。限界だった。押さえ込んでいた悲しみが、涙となってこみ上げてくる。過去に経験した別れの記憶、忘れたはずの辛い記憶が、彼女の心を侵食していた。
この町にはかつて、彼女の大好きな青年がいた。どんな時でも前向きで、優しく大きな青年のことを、彼女は誰よりも慕っていた。しかし今、町に青年の姿はない。自分自身を見つめなおすために、そして恩人の治療法を探すために、青年は町を去っていった。いずれはこの町に帰ってくるだろう。だが、青年が突然いなくなったという出来事が、彼女の心に小さな傷を残していた。そしてその時の傷跡が、再び口を開こうとしている。
流れる水音に隠れるようにして、彼女はしゃくりあげた。
遠く背後で短い音がする。
我に返ったメロディは慌てて両目を拭い、水を止めた。滴り落ちる名残の雫が水面を揺らし、訪れた静寂が耳を圧する。じわりと浮かんできた涙を、彼女は頭を振って追い払った。彼が待っている。早く水を持っていかなくては。
彼は彼女にとって大切な友人であり、多くを教えてくれる先生だった。困っていると手を差し伸べ、悩んでいると答えに導いてくれる。悲しみに沈んでいたとき、そばにいてくれたのも彼だった。彼のおかげでたくさんの思い出を作り、たくさんのことを学ぶことができた。この先も一緒にいられると、信じて疑わなかった。だから別れを聞かされたとき、彼女は泣いて彼を引きとめようとした。
お別れなんて嫌だ。離れたくない。一緒にいたい――。
思いつく限りの言葉で気持ちをぶつけようとした時、彼女を引き止めたのは、姉である由羅だった。泣き続ける彼女を、由羅は一晩じゅう抱きしめてくれた。黙って涙を受け止めてくれた由羅のおかげで、メロディは彼との別れを受け入れようと決心することができたのだった。アカデミーに帰ったなら、彼は今よりもっと偉い人間になれるのだ。もうわがままは言わない。新たな門出、せめて笑顔で送り出してあげよう。
そう決めて以来、メロディはあらゆる準備をしてきたのだった。彼の好きなお酒を探し、彼の好きな食べ物を研究し、鏡の前で笑顔の練習もした。部屋の掃除も入念にして、浴衣も二回は洗濯した。嫌な思いをさせてはいけないと、些細なことまで気をつけてきた。そして今日、彼に対するお礼の気持ちと、勉学に戻る彼への応援と、口にすることのなかった密かな想いと……それらすべてをこめた料理で、彼女は彼をもてなしたのだった。いや、もてなしはまだ終わっていない。お茶でも菓子でも果物でも、彼の好物は食べきれないほど用意してある。話し相手でも遊び相手でも、彼が望むなら何でもしていい。そうすればひょっとして――ひょっとすると彼の気が変わって、このまま町に、自分のそばに残ってくれるのではないか。そんな希望を、彼女はずっと抱き続けていた。
ポケットをまさぐり、メロディは黄色い小瓶を取り出した。透かして見れば、中には液体が入っているのがわかる。
「これはね、男の子と一緒に飲むおクスリなのよ〜ん」
いつだったか、へべれけに酔っ払った由羅が教えてくれた。
「一口飲めばフワ〜ってキモチよくなって、どんな男の子も、お・も・い・の・ま・ま。キャハハ〜ン……！」
一体なにに使うつもりだったのか。その後、この小瓶はいくつかある“由羅の秘密の隠し場所”の一つに隠されていたのだが、家中の掃除をひとりでこなしているメロディが、その場所を知らないはずはなかった。
この薬がどういうもので、飲めばどうなってしまうのか、本当のことはわからなかった。だがもし由羅の話が真実で、一緒に薬を飲んだ相手を思いのままにできるとしたら……自分の望みどおり、彼を引き止めることができるかもしれない。
もう一つグラスに水を注ぎ、メロディは二つの中身がまったく同じになるように、何度も何度も調整した。同じ量にする必要は必ずしもないはずだ。だがメロディは、なぜかそうしなければならないと、ずっと思いこんでいた。水も、そして薬も。それが二人を結び付けてくれる理由のような気がして。
ようやく嵩のそろったグラスの中へ、彼女は小瓶の薬を半分ずつ、慎重に加えていった。透明な液体が水のなかで煙のように広がり、ゆらゆらと揺らめく。かき回すまでもなく、やがて二つは完全に混じりあった。
これで彼は……。
淡い期待のある反面、黙って薬を飲ませる後ろめたさが、小さなトゲとなってチクリと刺さった。自分がひどく悪いことをしている、そんな気がした。由羅の隠していた薬を持ち出し、それを彼に飲ませようとしている。由羅も知らない。彼も知らない。隠し事をすることが、子ども心にはとてつもない罪悪のように感じられた。
それでも――。
頬をこすって涙のあとを消し、メロディはグラスを手に彼の元へと向かった。
「キムちゃん」
ふすまが開く。
彼はすばやく眉間の皺を消し、目元を緩めた。顔を上げる間の一瞬の変化。眼鏡の縁が影となって、前後の違いをガラスの向こうに隠してしまう。傍目には、彼は最初から微笑んでいたようにしか見えなかった。
「おまたせなの〜」
純真な笑みで、メロディがグラスを差し出す。表情の変化には気づかなかったようだ。彼がホッと胸を撫で下ろす。だが、気づいていないのは彼も同じこと。彼女の頬は白く乾いていたのだが、それは笑顔の陰にすっかり隠れてしまっていた。
互いに気持ちをしまったまま、作り笑顔がすれ違う。
「ありがとうございます」
グラスを受け取った彼が水を飲み下すのを、メロディは息を凝らしてじっと見つめた。赤い唇が触れ、グラスがゆっくりと傾いていく。コクッコクッという小さな音。嚥下に合わせて上下する喉仏。平らのまま下がっていく水面。ゆっくりとだが、グラスの中身は確実に減っていく。
飲み干し一息ついたところで彼はメロディの熱い視線に気づき、戸惑いの表情を浮かべた。
「どうしたんです？」
尋ねられたメロディが、ふるふると首を振る。「ちゃんとクスリを飲むか確認していた」などと答えられようはずもない。
笑顔でごまかし、彼女は手のなかのグラスに目を落とした。彼はきちんと飲んでくれた。疑うことなく、この中身を。今度は自分が飲む番だ。だが――。
ここにきて、彼女の中にためらいが生まれた。飲んだらどうなるのだろう？ 味は？ 匂いは？ 苦いのだろうか、それとも……？ 薬が入っていると思うと、グラスに入った透明な水も、何か恐ろしいもののように目には映る。飲まなくてはいけないのに、子どもなら誰しもがもつ薬に対する恐怖心が、最後の最後で気持ちをくじく。
チクリとトゲが胸に刺さった。自分はここでやめられる。しかし彼は飲んだあとだ、飲むなといっても遅すぎる。ここまで準備をしておいて、黙って薬を飲ませておいて、今さら引き返すことなどできはしない――。
彼女は覚悟を決め、両手でしっかり握ったグラスを口へと当てた。
「んくっ、んくっ、んく……プハッ！ うみゃぁ〜……」
息を止め、無理やり水を飲み込んでいく。幸いというべきかこの薬は完全な無味無臭であったのだが、そんなことは彼女にとってどうでもよかった。味や効果は関係なく、嫌だったのは“薬”を飲むことそれ自体。嫌な思いをして薬を飲んだ今、メロディはただ自分の小さな望みが叶うことを願うだけだった。
彼女の飲みっぷりに唖然としていた彼は、上目に送られてくる視線の意味を量りかね、少し頬を赤くした。女性から見つめられた経験など、彼にはほとんどない。二十歳を過ぎた今となっても恋愛経験はゼロに等しく、当然、女性と付き合ったことなど皆無だった。
だから彼が彼女の視線をまっすぐ受け止められなかったとしても、それは無理からぬことだった。
目を逸らしてしまった彼に、メロディが悲しそうに肩を落とす。薬を使っても、彼の気持ちは変わらなかったのだろうか。それとも、まだ何か足りないものがあるのだろうか。
「キムちゃ……！」
言いかけて、メロディはめまいのようなものを感じた。景色が歪み、白い靄が目の前に広がっていく。音がこもって聞こえる。動悸が激しい。身体が内から熱くなる。意識が体を離れるような、そんな浮遊感が全身を揺らす。
救いを求めて視線を前に送ったとき、彼女の心臓はドキリと跳ね上がった。
彼がいた。霞にぼやけた視界の中で、その姿だけがはっきり見える。ずっとそこにいたはずなのに、何故だろう、目にした瞬間とつぜん現れたような驚きがあった。
「キ、ちゃん……、メロ、ディ……」
思いを口にしようとしても、荒い息が邪魔をする。舌がもつれて言葉にならない。だが途切れ途切れの声のおかげで、彼は異常に気づいてくれた。
「メロディさん？ どうかしたんですか？」
気遣うような真剣な声。その声を聞いただけなのに、メロディは鼓動が早くなり、汗が噴き出すのを感じるのだった。
「顔が赤いですよ、熱があるんじゃないですか？ ちょっと失礼――」
「ふみゃ……！」
身を乗り出した彼が、メロディの額に手を当てる。心臓がびっくりするほど大きな音を立て、彼女は自分でも気づかないうちに尻尾を大きく膨らませていた。ドキドキドキドキ――。心臓の音だけが耳のなかで大きく響く。彼の手は熱くなった体よりもずっと温かくて、大きくて気持ちよかった。逆立っていた尻尾の毛が寝ていくと同時に、眠りに落ちる時のように全身の力が抜けていく。
「うーん、やっぱり熱があるみたいですね。少し休んだほうが……」
引っ込める手につられるように、メロディは彼の腕のなかに倒れていった。
ドサッ！
不自然な体勢でいたせいか、彼女の体を受け止めながらも、彼は畳に尻餅をついてしまった。その彼の上に、完全に脱力したメロディの体がのしかかる。事態がわからず、彼はただただ赤面した。
「メ、メメメメロディさんっ？ ちょっ、大丈夫ですか？」
むやみに体に触れるわけにもいかず、抱きしめた姿勢のまま彼は尋ねた。上ずったその声に、メロディがゆっくりと顔を上げる。
「ふにゃあ……キム、ちゃん……」
白濁する意識のなかで自分が彼に抱かれていることを悟り、彼女は嬉しそうに微笑んだ。全身に感じる彼のぬくもり、鼻腔に届くお日様の香り。いつも日なたで仕事している彼からは、天日に干したふかふかの布団と同じ匂いがした。目を閉じて大好きな香りを胸いっぱいに吸い込むだけで、幸せな気持ちになってくる。それと同時に彼女は、今までに経験したことがない疼きが体のなかで目覚めるのを感じるのだった。
「しっかりして下さい！ とにかく、一度横に……」
しな垂れかかるメロディを、彼は無理やり引き離した。遠ざかるぬくもりに、彼女が不満そうに声を上げる。芯を無くしたように弛緩した彼女を座らせ、彼は布団を敷くために立ち上がろうとした。
「……あれ？」
めまいがする。二、三歩よろめいて、それでも彼は倒れないよう踏ん張った。体が熱い。目がかすむ。アルコールにも麻痺することのなかった脳の一番深い部分が、しきりに不調を訴えている。遅ればせながら、彼にも薬が効き始めていた。
「キム、ちゃん……」
甘い声でメロディが彼を呼ぶ。その声に、彼はドキリと心臓を震わせた。聞いたことがないほど官能的で艶っぽい声が耳をくすぐり、心を捉えて離さない。男の部分が反応を示し、他のことが考えられなくなる。体の発する要求に、心が負けてしまいそうになる。成人した彼は、それがどういうものかはもちろん理解していた。健全な男性として、そういう衝動に駆られたことも一度や二度ではない。だが、一時の衝動に流されてしまうほど、彼の理性は弱くはなかった。
魔法が当たり前に存在するこの世界にあって、生まれつき魔法が使えないということは彼の大きなコンプレックスだった。先天的な能力の欠損、スタートラインに立った時点で、彼は他人より大きく出遅れていた。そしてその差は、努力や苦労といったものでは決して埋められない、絶対的なものだった。あからさまな憐みと嘲笑の浴びせられるなかで、彼はのんびり屋でお人好しの仮面を作り、そんな自分を演じることで、自己を見失うことなく二十年を生きてきたのだ。どんな屈辱にも我関せずの態度を貫き、ただただ学道を突き進んできた二十年。崩れることのない理性と、生来の好奇心によって蓄えた人並外れた豊富な知識は、生きる上での彼の武器だった。だから体の欲求程度に負けて彼が理性を失うなどあり得ない話で、由羅の薬をもってしてもそれはやはり不可能なことだった。
押入れから出した布団を敷き、立ち上がる力のないメロディを抱き上げたときも、彼女を布団に寝かせる間も、彼は欲情していることを自覚しながらも、決して必要以上に彼女の体に触れようとはしなかった。唇を噛み締め腕に爪を立て、痛みによって気を紛らわせる方法を、彼は身につけていた。しかしメロディは――。
「へんなのぉ。からだが、ムズムズするの〜……」
体の疼きを抑えきれず、彼女は布団の上で体をよじった。薬によって引き起こされた疼きは、苛立ちさえ感じさせるものだった。爪の下をかゆみが走るような、耳のなかを虫が這い回るような、あるいはそう、蒸し暑い夏の夜に猛烈な喉の渇きによって目が覚めたときのような……あの全身をかきむしりたくなるような苛立ちが、間断なく襲ってくる。
輾転しながら、メロディは着ていた服を脱ぎ始めた。
「ちょっと、何やってるんですか！」
慌てて彼が止めに入るが、メロディは駄々っ子のように首を振るだけだ。
「だって、じゃまなの〜！」
火照って汗ばんだ彼女にとって、服はもう肌に張りつく不快なものでしかなかった。襟元からのぞく胸の谷間。スカートから突き出たすらりとした太腿。熱を帯びて潤んだ瞳が、彼の目をひたと見据える。生まれて初めて好きだと感じた少女がしどけない姿をさらすさまは、酒や薬が入ってなくとも、とてつもなく大きな誘惑だった。
彼女を自分のものにしたい。
その衝動を、彼はこぶしをしきりに握りかえることで必死に押し殺した。
「キムちゃん、おねがいなのぉ」
救いを求めるように、メロディが身をくねらせる。扇情的な動きから目をそらし、彼は黙って目を閉じた。
「メロディをたすけてほしいの。キムちゃんにさわっていてほしいの。きもちわるいの、なおしてほしいの〜！」
彼女の一言一言に、体と心が反応する。彼はもう、自分が理性を保てるのも後わずかだとはっきりと感じていた。押し隠してきた欲望が首をもたげ、誘いの言葉を投げかけてくる。この町にいるのもあと少しなのだから。自分のほうが力は上なのだから。彼女は自分を好いているのだから。今なら彼女も抵抗できないのだから――そうだ、彼女を襲うなら、チャンスは今しかない！
顔を上げた彼は荒々しくメロディの両腕を押さえ込み、彼女の上に覆いかぶさった。突然の出来事に、さすがに彼女も怯えた目をする。
「キム、ちゃ……」
「い、嫌なら言って下さい」
据わった目で、彼はメロディを睨みつけた。
「あなたが一言いってくれれば、僕はもうあなたを手にかけたりはしない。約束します。だから、僕を拒絶するなら、早く……！」
それは、彼の最後の望みだった。少しでも理性が残っているうちに彼女に拒絶されれば、素直に身を引くつもりでいた。いちど拒絶されれば、何があろうと彼女を襲わずに済ませる自信もあった。だが理性を失ってしまった後なら――おそらくそのとき拒絶されたなら、そのときは力ずくで彼女を奪ってしまう。どれだけ彼女を傷つけようと、どれだけ彼女を悲しませようと、そんなことは気にも留めずに……。だから、いま言ってほしかった。二度と彼女を奪いたいなどと考えられなくなるような、その一言を。
「いいよ……」
不器用な優しさに触れて、布団に押さえつけられたまま、メロディが微笑む。
「メロディ、キムちゃんになら……なにをされても、いいんだよ？」
「〜〜〜〜〜〜〜！」
囁くように投げかけられた言葉に、彼は声を出さずに叫んでいた。一番聞きたくなかった一言、許しを得たと感じた瞬間、それまで必死に守ってきたものがすべて崩れていくような気がした。何があっても彼女を傷つけないと誓ってきたはずだった。彼女の抱く好意についても、自分の思い込みだと、都合のいい解釈なのだと、そう自分に言い聞かせてきた。好かれる価値などない男だと自分を卑下して、彼女の友人でいられることに満足してきた。それでも、それでも――世間一般の感覚に合わせるなら、彼は間違いなく、一人の男として彼女を愛していた。
「いいん……ですね？」
上げた顔は予想に反して、泣きそうなほどに歪んでいた。体の欲望に負けたのではない。自らの意思で彼女を抱くことで、彼は理性を保つ道を選んだのだった。それは二人が今まで以上の深い仲になると同時に、傷つきながらも彼が保ってきた関係の終焉も意味していた。
震える声で確認すると、メロディはこくんとうなずいた。恥ずかしさがないわけではなかったが、火照った体は彼を求め、言い知れぬ期待が心を揺さぶっていた。なにより彼の望みであるならば、恥ずかしいことでも嫌なことでも、どんなことでも受け入れる覚悟だった。だから二の腕をつかんでいた彼の手が離れていったとき、彼女は期待が外れた失望から、小さく吐息を漏らしていた。
「本当に……いいんですよね？」
眼鏡を外しながら、彼が二度目の確認をする。いつも眼鏡をかけた姿を見ているせいか、その顔からは別人のような印象を受ける。凛々しさとあどけなさの同居する見慣れぬ顔を確かめる前に、彼女はしっかりと抱きすくめられていた。
「キムちゃん……」
二つの身体が密着して、伝わる鼓動が一つになる。普段は感じることのない彼の身体の大きさ。背中に回された腕の力強さ。包み込むような温かさのなか、メロディがうっとりと目を閉じる。邪魔するもののいない、二人だけの時間。二人だけの世界。
彼女のうなじの匂いを心ゆくまで吸い込み、彼は彼女の服を脱がしにかかった。手探りで探し当てたエプロンの結び目を解き、後ろにあるボタンを外していく。そんな彼のために、メロディは背中を反らせて布団とのあいだに隙間を作った。二人で行なう共同作業。彼にすべてを任せるのではなく、自分も一緒に行なっているのだと思うだけで、彼女の顔には自然と笑みが浮かんでくるのだった。
腰まで下りてきた手が離れ、彼が一旦体を起こす。女性の服を脱がせるのは、彼にとっては初めての経験。尋ねるような視線を受けて、彼女はうなずくことですべてのボタンが外れたことを彼に伝えた。
「じゃあ……」
「ウン……」
彼の手が襟首にふれ、服がゆっくりと引っ張られる。動きに合わせて身じろぎすると、ワンピースのその服は、着ていたときの形のままするりと肌から離れていった。
布団の上に投げ出される肢体。まとっているのは二つの白い布地だけだ。上気した肌は薄桃色に染まり、下着の白と鮮やかな対比を見せている。細身とはいえ肉付きはよく、むっちりとした彼女の躯は実に健康的だった。
ぬくもりの残る服をつまんだまま、彼がごくりと唾を飲み込む。
ゆっくりした動作で丁寧に服を下ろし、彼はもう一度彼女の背へと腕を回した。
「ふみゃ……っ！」
肌と肌が直接触れて、メロディが身をよじらせる。服の上から感じたものとはまったく違う刺激が全身を駆けめぐり、おなかの奥へと抜けていく。夜気に冷まされた体が、新たな刺激にふたたび熱を帯び始める。
彼女の反応にびくりと手を引っ込めた彼だったが、顔色をうかがい、抵抗の様子がないとわかると、慎重に手を彼女と布団の間にもぐり込ませていった。メロディの肌は柔らかく、吸い付くような感触に鼓動が早まる。左右から布地の上を這っていった指がぶつかり、彼はそこに小さな金具を発見した。
はやる気持ちを抑えながら金具を外し、胸をおおう布地をはがしていく。
「あっ……！」
触れる冷気にメロディは声を漏らし、体を強張らせた。ふだん外気に晒されることのない部分だけに、ちょっとした温度の変化にも敏感に反応する。反射的に目を閉じた彼女だったが、肌はすぐに空気に馴染んだ。皮膚を引っ張られるような感覚はあるが、特別意識しなければ気になるほどのことでもない。
そろそろとまぶたを開くと、彼の顔がぼんやりと見えた。初めて目にする女性の身体に、彼はまばたきすら忘れて見入っている。あまりに熱いその視線に、メロディは急に気恥ずかしさを覚えた。
「キムちゃん。そんなにみられたら、メロディ、はずかしいよぉ……」
「んぁっ！」
恥じらいながら胸を隠す仕草はひどく色っぽい。凝視している自分に気づかされ、彼はどこか間の抜けた声を上げた。
「す、すみません……！」
謝る彼の顔が、湯気が出そうなほど赤くなる。成人した大人でありながら、彼が見せる反応は少年のように素直で、なんだか妙に可愛らしかった。喜怒哀楽、心に応じた百面相は見ていて飽きない。もっと見たい。彼のいろんな表情を、もっともっと見てみたい。そんな欲念が、彼女のなかに沸き起こってきた。
「キムちゃん」
誘うように声をかけ、メロディははにかみながら両手を開いていった。形のよい胸のふくらみが、ふたたび彼の前に披露される。張りのある肌のもつ不思議な魔力、磁石に鉄が吸い寄せられるように、彼の目が釘付けとなる。視線を引き付けるだけ引き付けておいて、彼女はその対象をサッと隠した。嫌がらせてしまったのかと彼が見せる自省の表情。だが、そこには“おあずけ”に対する不満もかすかに見受けられた。手の中にある彼女の、夢にまで見たその裸体。しかし肝心なところは隠されて、眺められないもどかしさ。
歯痒さに煩悶する彼の顔に、メロディはいたずら心をくすぐられた。
「みたい？」
身体をくねらせ、小悪魔の笑顔で彼に尋ねる。声につられて一瞬だけは目を合わせたものの、彼はすぐに顔をそむけてしまった。内気な彼は、望みがあっても口にはしない。柔順さゆえに、彼女の嫌がることも決してしない。だからその問いかけに対して、彼が自分の気持ちを認めるなど、最初からありえないことだった。必死になって否定してみせるか、それすらできずに目をそらせるのが精一杯といったところ。メロディには、それがよくわかっていた。わかってながら敢えてその質問を投げかけ、彼の反応を確かめる。返ってきた予想通りの反応に、彼女は満足感を覚えていた。彼のすべてを理解しているような、彼を意のままに操っているような、そんな錯覚が彼女の内なる興奮を高めていく。
「キムちゃん……」
甘い声で名前を呼び、彼女は彼の意識を引き寄せた。
「すきにして、いいよ」
よく見えるよう身体の位置を調整して、両腕をふとんの上に落としていく。まな板の鯉よろしく裸身を晒しながら、彼女は恥ずかしそうに微笑んだ。
「メロディ、キムちゃんにさわってほしいな……」
心が幼いゆえに、メロディは身体の求めに対して正直だった。疼きの正体も知らず、疼きを処理する方法も知らず、無知ゆえに大胆に彼を欲する。
「僕は……」
うつむいたまま、彼は奥歯を噛み締めた。彼女を欲しているのは彼とて同じこと。それでもなお、無垢な彼女でいてほしいと、穢れを知らぬままでいてほしいと……好きだった“いま”の彼女でいてほしいという願いが、彼を引き留めていた。先に進めば後戻りはできない、それがわかっているからこそ、決断することができない。
腰への締めつけが緩くなり、彼は顔を上げた。メロディの指先が帯にかかり、結び目がほどけていく。意図してのことだったのか、ただの偶然だったのか、それはわからない。だが、しっかりと合わせていた浴衣の襟元が重力に負けて垂れ下がっていくと、彼女は愛おしそうにはだけた胸に手を這わせていった。綿毛で撫でられるような感触に、全身に鳥肌が立つ。熱っぽい瞳で見つめられて、彼は呼吸を震わせた。
「僕は、僕は……」
見たい。触りたい。抱きたい。彼女のすべてを奪い去りたい。あふれ出す衝動に、思考までもが押し流されていく。
泣きそうな目で、彼は彼女の顔をじっと見つめた。
「僕は、メロディさんが欲しい……」
消え入りそうな声で胸のうちを吐露する。それは、彼がひた隠しにしてきた自分の気持ちをはじめて認めた瞬間だった。飾りも何もなく、ただ自分に言い聞かせるような短い呟き。それでも彼の口から聞かされた秘めた想いに、メロディの胸には温かいものが広がっていった。
「うん……」
笑顔を返し、迎えるように両手を彼へと差し伸べる。重ねられた身体をしっかりと抱きしめ、彼女はしばし安息にひたった。さえぎるもののない抱擁。痩せぎすな彼の体から伝わってくる鼓動と体臭。目を閉じると溶けてしまいそうで、メロディは小さく声を漏らした。
「みゃ、ぁ……」
「…………」
耳元にその声を聞き、彼の腕にも力がこもる。互いのぬくもりを、体温を肌に刻むように抱きしめて、抱きしめて、抱きしめて――。それから彼は、体を起こした。
「メロディさん――」
右の肩先に手を沿え、彼女の名を呼ぶ。みなまで口にする必要はなかった。見つめ合うだけで、言いたいことはすべて伝わる。背中に回していた腕を下ろして、メロディはすべてを彼にゆだねた。
「肌、キレイですね」
彼女の頬に手を当てながら、彼が囁く。独り身の無精、肌の手入れなどしたこともなく、発掘という名の土いじりのなかで、彼の手はひどく荒れていた。しっとりと潤う彼女の肌とは対照的に、かさかさに乾いたその手はひどく汚い。固くなった皮が彼女を傷つけはしないかと不安を覚えたりもしたが、メロディは逆に顔を押しつけ、その手に頬ずりをした。
「キムちゃんのおてて、あったかいよ？」
あどけない表情に、彼の顔もついつい綻びる。頬に触れていた部分が手のひらから指の腹へと変わり、彼は形を確かめるように顎の輪郭をゆっくりとなぞっていった。
「ん……」
おとがいが持ち上げられて、白い喉があらわにされる。裸体を飾るチョーカーは、さながら首輪といったおもむきだ。指先で鈴を弾かれ、メロディは恥ずかしさから頬を赤く染めた。
「フフッ……」
楽しむように、彼が小さく笑う。
「ふみゅう……。キムちゃん、イジワルなの〜……」
下唇を突き出して抗議すると、彼は優しく頬に手を沿わせてきた。
「イジワルで結構ですよ。むしろイジワルと言われたほうが、今は嬉しい……」
「みゃっ！ ふにゃっ！」
言い終わる前に、彼の指は首筋へと下りてきた。動脈の上をたどり、今度は細い鎖骨の上へと。温めるように肩をさすり、それから彼は、彼女の胸へと手を伸ばした。
「いいですよね？」
触れる直前で手を止め、小首をかしげながら確認を取る。恥ずかしさに震えながらも、メロディはうなずいてみせた。
「それじゃあ――」
「ふみゃみゃみゃっ！」
微笑み返し、彼は胸に触ると見せかけて、脇へと右手を滑り込ませた。不意をつかれ、メロディがくすぐったさに身悶える。反射的に腕でその手を挟み込み、彼女は頬を膨らませた。
「みゅぅ〜、キムちゃん！」
「だってメロディさん、緊張しすぎなんですもん」
クスクス笑うと、彼は空いている左の手で彼女の頬を優しく撫でた。
「僕がメロディさんの嫌がること、するはずないじゃないですか。ね？」
諭すようにゆっくりと紡がれる言葉。慈しみのこもった愛撫を受けて、メロディは「にゅう……」と小さく鳴いた。心に抱いた不平や不満も、温かさに包まれるように消えていく。期待を裏切る意地悪でさえ、彼の愛情だと誤解してしまう。
力が弱まった隙を狙って、彼は手を動かした。
「にゃあっ！」
さっきとはまた違うくすぐったさが体を駆け抜けていく。触られたのは胸郭の端、彼女が“ムネ”だと判断しない、ぎりぎりの部分だった。油断していたところを責められて、メロディの口から声がこぼれる。反応を確かめながら、彼は探るように肋骨の上に指を這わせていった。
胸が彼女の弱点だということを、彼は知っていた。同時に、そこに触れられると無意識に反撃してしまうことも。彼の知人にも、不幸な事故によって手痛い一撃をこうむった人物がいた。だから彼はその感触を想像こそすれ、ふくらみにだけは手を出そうとはしなかった。それは反撃が怖いからではない。事ここに至っても、彼はそこに触れると彼女に嫌われるのではないかと、そんな恐れを抱いていた。
「ふ、みゃっ……。キム、ちゃん……っ」
肌を撫ぜる優しい指遣いに、メロディの息は徐々に徐々に荒くなっていった。指の動きに合わせて、ぞくぞくと身体が震える。火照った肌に汗が浮かんでくる。興奮に鼓動が高まっていく。弱い部分を避けた煮え切らない刺激は、もどかしくさえあるほどだ。もっと強く、もっと強く――。さらなる刺激を要求して、体と心が叫んでいる。
彼女が不快ではない感覚に浸っているのを確認すると、彼は出し抜けに、均整のとれた身体にメリハリを与えるくびれへと指を走らせた。
「うみゃあああっ！」
そこは彼女の一番敏感な場所。焦らされていたところに加えられた強烈な刺激に、メロディは悲鳴をあげながら腰を跳ね上げさせた。体験したことのないほどのくすぐったさに心臓が一瞬止まり、脳が痺れて真っ白になる。血が凍りつき、じっとりとした汗が肌をおおう。暑いのか寒いのか、それすらわからなくなってしまう。吐き出した酸素を取り戻そうとするかのように、彼女は胸を大きく上下させた。
「ふっ！ ふあっ！ みゃぁ……っ、はあ……」
意思とは関係なく筋肉が収縮し、全身に痙攣が走る。触れられる感触もひどく遠い。襲いくる脱力感の中で、彼女はおなかの奥深いところに潤いが広がっていくのを感じるのだった。
「大丈夫ですか？」
激しい反応に驚きながらも、彼はいたわりを忘れない。耳をくすぐる優しい声。貼りつく髪を払ってくれる温かい手。その手に頬をすり寄せながら、彼女は小さく吐息を漏らした。心地よい疲労感と彼のぬくもりを味わいながら眠りに落ちることができたなら、どれだけ幸せなことだろう。彼はただ、あやすように体をさすってくれている。いざなうような優しい手つきで……。
混濁した意識が消失しようとしたまさにその時、メロディは浸っていた幸福から目覚めさせられた。腰骨から腿へと下りていた彼の指が、戻って下着にかけられている。
「ヤ……！」
顔から火が出る恥ずかしさに、彼女ははじめて拒絶を示した。秘部をおおう最後の薄布。その内にあるのは、一度として男の目に触れさせたことのないものだった。望まれたからといって気安く見せられる場所ではない。ましてや潤い溢れる今とあっては、相手が由羅でも見せられない。彼ならすべてを晒していいと思っていても、その部分だけは話が別。決心のつかないなか、彼のペースで脱がされるのは、耐えられないほど恥ずかしいことだった。
「ダメ、なの……」
羞恥心に体が震える。彼は少し残念そうな顔をしたが、すぐに柔らかな微笑みを浮かべ、彼女のまっすぐな髪を手で梳いた。
「……わかりました」
拒絶されたなら手は出さない。その約束はまだ生きていた。あと少しで彼女と結ばれるこの状況で身を引かなくてはならないのは未練を感じることではあったのだが、ほっとしている自分もどこかにいた。欲望を満たしたいという思いもある。だからといって流されるままこんな行為を続けたとしても、いたずらに彼女を苦しめるだけだ。決断しなくてはならない。傷つけることになっても彼女を抱くのか、それともこの拒絶を引き際とするのか――。選択肢を用意したところで、答えは最初から決まっていた。ここまできてというのではなく、ここまでしてくれた彼女に感謝しよう。
名残惜しそうに彼女を一抱きして、彼はそのぬくもりを心にしっかり刻み込んだ。
「まって……」
腕のなかでメロディがもがく。
「ちがうの。そうじゃないの……」
拒絶したのは嫌だからではない。彼ならすべてを見られてもいい。そう思っているのに恥ずかしさだけは拭えない。見られるのは嫌ではないが、恥ずかしいのはやっぱり嫌だ。
気持ちをうまく言葉にできず、彼女は彼の胸に顔を押し付けた。
腕の力を抜いて彼が体を起こす。引き離されてしまった彼女は小さく震えながら、彼の目をじっと見上げた。知的な輝きを宿した黒い瞳。裸身の彼女を前にしても、その目つきにいやらしさはない。しかし慈愛のこもった澄んだ目は、かえって恥ずかしさを助長させるものだった。
「あ、あのね……！」
緊張のあまり、声が裏返る。顔にもみじを散らし、浅い呼吸を整えてから、彼女は青い瞳をかすかに揺らした。
「むこう、むいててほしいの……」
探るように彼女を見つめ、彼は言われるがままに後ろを向く。振り返ったり盗み見たり、そんな気配は微塵も出さず、静かに両目を閉じている。彼の視線が離れてから、メロディは下着にそっと指をかけた。
踏ん切りがつかなかった。この一枚を取り払ってしまうと、彼女を守るものは何もなくなってしまう。暴れる心臓の音を耳元に聞きながら、彼女は彼の背をそっと見つめた。何を考えているのだろう？ その胸に去来するものは？ この位置からでは陰になって、表情を確かめることはできない。
意を決し深呼吸すると、彼女はありったけの勇気をもって下着をずり下ろした。寝ている姿勢のまま腰を振り、手が届かなくなると脚をバタつかせ、足首に引っかかった布地を蹴り飛ばす。思っていたよりも簡単に脱げた下着と裸になった自分を確認して、メロディは長く息を吐き出した。諦めにも似た境地にため息が洩れる。胸を見せたときとは違って、緊張だけが高まっていく。
脚を閉じ膝をすり合わせることで、わずかながらその場所を隠して、彼女は彼へと声をかけた。
「いいよ……」
「はい」
律儀に返事をしながら、彼は振り返った。背を向けている間に、彼女が何をしているのかは予想しておいた。自分にとっては喜ばしい妄想と、落胆の結末をいくつも思い浮かべ、それぞれに応じた反応を繰り返し想像していた。同じ状況でも異なる対応を複数考え、何度も何度も行動をなぞり、最適と思える対処を選び出していた。彼女に嫌な思いをさせないように、そして同時に、自分の迷いを断ち切るために……。
不自然にならないよう、彼は振り向きざまにすばやく彼女の体を確認した。足先から上へと、視線はとどまることなく駆け抜けていく。途中で突き当たった事実は、彼の希望にもっとも叶ったものだった。最後の布地が取り去られ、その下にあった未開の秘境が無防備に晒されている。目の動きから一瞬遅れて脳がそれを認識し、彼はかすかな歓喜とともに心臓が締めつけられるような高ぶりを覚えるのだった。
彼女が自ら下着を脱ぎ去っていることは、想定していた可能性のひとつ。もちろん対策もできていた。意識的に視界の中心から外すことで、その部分を気にしながらも無関心を装う、彼はそのつもりでいた。だが――。
通り過ぎたはずの視線が引き戻され、一点で停止する。そこは彼女の、脚と脚とのちょうど中間。ぴたりと合わされた腿に大事なところは隠されているが、つるりとした下腹部はすっかり露わとなっていて、おおよその形をうかがい知ることはできる。しかしまだ、細かいところや深い部分まではわからない。思春期を迎えてよりこの方、聞きかじりの知識で想像してきたその場所だ。描いたイメージが当たっているのか、それともまったく違っているのか。旺盛な知識欲ゆえに、彼はそこから目が離せなくなっていた。観察するようなその視線は、胸を見るよりさらに熱い。
恥ずかしさのあまりメロディは身体を震わせ、目尻に涙を浮かべた。
視線から逃れるように彼女が体を横に向けると、今度は丸いお尻が飛び込んでくる。重要な箇所は見えなくなったが、それでも彼にとってはじゅうぶん魅惑的な眺めだった。引き締まった曲線と、彼女にしかない白い尻尾、その付け根までがはっきり見える。
生え際に至るまで舐めるように線をたどり、彼はその形をしっかりと確かめた。ずっと疑問に思っていた尻尾の生え方。人間では退化してしまった数十の尾骨が、彼女の場合は背骨の下にしっかり残っているようだ。ニセモノと疑ったことはなかったが、本物だと自分の目で確認できたのは、彼にとって満足すべきことだった。これで、彼女の体のうちで彼が知らないのは一ヶ所だけ……。
興奮に胸を高鳴らせ、彼は重なり合った腿の間へと目を落とした。目の前に、それこそ手を伸ばせば触れられるところに彼女の身体がある。今は隠れてしまっているが、彼女が少し、ほんの少し動いてくれれば、秘められた部分のすべてを目にできる。彼女が動こうとしなくても、軽く体を押せば、それだけで……。
そう思うと、もう我慢はできなかった。
「いい……いいんですよね！」
いつになく乱暴な声だった。肩をつかみ仰向けに押し倒す手も、睨みつけるような目つきも、普段の彼からは想像もできないほど粗暴で、温かみに欠けている。確認しているように聞こえても、その声色は強要に近い。高圧的な物言いは、怖いと感じてしまうほどだ。興奮を抑えきれず急いているのか。それとも緩み始めていた理性の箍が、とうとう外れてしまったのか。
メロディは潤んだ目を開き、震えながらうなずいた。
「なら……ッ！」
許諾を得、遠慮する理由はなくなったはずなのに、それでも彼は少し喘いだ。見るのに勇気がいるわけでもあるまい。自制心は残っているということか。強引な手段に出ることもできたのに、彼はそれを選ばなかった。気を落ち着かせるために深く息を吸い込み、それからその手を下へと伸ばしていく。まずは彼女の緊張を解かせるために、彼はゆっくりと、探るように指を動かした。
「んっ……」
太ももをまさぐられて、メロディが体を強張らせる。触れられた場所を中心に、波紋のように広がっていくくすぐったさ。快と不快が同居する不思議な感覚。表情と反応を確かめながら、彼の手は肌の表面を撫でていく。胸のときと同じだ、核心となる部分に触れようとはしない。ただ上から下へ、外から内へ――腿の上に指を這わせていく。単調ではあるが少しずつ場所を変えて。彼女が刺激に慣れてくると今度は爪の先を使って。硬質な爪の感触は指とはまったく違い、撫ぜられるだけで毛が逆立つ。
おなかの中で大きくなる潤いとうずきに、メロディは吐息を熱くした。硬くなっていた身体が解きほぐされていくのがわかる。閉じていた脚にも、もう力が入らない。張り詰めていた神経が、筋肉とともに弛緩していく。恥じらいからくる緊張と期待からくる興奮、二つの境界が揺らぎ、溶け合い、鼓動が高まっていく。
「はみゃぁ……」
唇の間から艶めいた声が洩れ、かいた汗を冷たく感じるほど体が火照った。それは恥ずかしさゆえだったのか、それとも心の高ぶりゆえだったのか、彼女にも判別はできなかった。ただドキドキと高鳴る心臓が、胸と身体を熱くするだけだ。そしてこのドキドキをもっと味わえるなら、理由はもう、どちらでもよかった。
彼が両脚に手をかけてくる。それだけで息が震え、頭が内側から痺れていく。残っていた抵抗の意思も完全に消えていく。息苦しいほどの鼓動でさえ、心地よいと感じてしまう。彼の指が左右の膝に触れ、彼女は加えられる力に合わせて、自ら脚を開いていった。
「あ、ああ……」
明らかとなる肉色の裂け目。目の前に広げられる乙女の秘裂に、彼は苦しそうに肩を上下させた。経験したことがないほどの興奮と感動。耐えようもなく零れる吐息。鷲掴みにされた心臓が不規則に脈打ち、沸き起こる衝動に汗がにじみ出る。自制と欲望のせめぎ合いに、苛立ちだけが募っていく。
一点を注視したまま動かなくなった双眼に、メロディは小さく身じろぎした。恥ずかしいのに顔が笑う。動悸がさらに激しくなる。麻痺しかけた思考のなか、彼を求める声だけが頭に響く。抱いてほしい。早く、少しでも早くと――。その声はもう、訴えというより叫びに近かった。
「キムちゃ〜ん……」
堪えきれず、彼女は手を伸ばした。甘く、それでいて悲しそうな声色。恥じらいのなかに切なさの混じった表情。それらは情欲をそそって十分なものだ。危ういところで保たれていた理性が崩れ、勝った欲望が首をもたげてくる。彼がまなじりを決したかと思うと、彼女は上体が起き上がるほどの勢いで腕を引かれ、そして力いっぱい抱きしめられていた。
「メロディさん！」
「ふあっ、にゃぁ……」
包まれる温かさに、おなかの奥に力が入る。疼きがさらに大きくなる。思わず漏らした吐息に、彼の腕に力がこもる。苦しいほどに抱きしめられて、それから唐突に、彼女は布団の上に突き放された。
「んにゃ、キムちゃん？」
「動かないで！」
彼女が体を起こす前に、彼はその上に覆いかぶさってきた。浴衣も下着も脱ぎ去り、一糸まとわぬ姿となって、閉じようとする脚の間に割り込んでくる。濡れそぼつ中心へと先端をあてがい、彼は彼女の両肩を押さえつけた。
「いいですか？」
重なり合う二人の視線。瞳に映りこむのは、裸となった互いの姿だ。これから始まる未知なる行為に、一抹の不安が心をよぎる。だがそれ以上に、期待は大きく膨らんでいた。待ちに待った瞬間、文字通り二人が結ばれるその瞬間が、ついに訪れようとしている。
「いきますよ……！」
息を吸い込んだ彼は下腹に力をこめ、体を前に押し出していった。
「あっ！」
硬いものが触れ、体中に緊張が走る。収束する神経。拒絶する肉体。顔から血の気が引き、全身が硬直する。抵抗むなしく侵入は止まらない。おなかに重みがかかり、彼が腰を落としてくる。隙間を残していた二人の身体は、ゆっくりとだが確実に近づいていった。
「ん……んにゃあぁッ！」
押し広げられる感覚に、メロディが悲鳴をあげる。夢見心地も覚まされる凄まじい痛み。そして彼は、背骨を駆け上がってくる電流の如き刺激に、奥歯の間から呻き声を漏らしていた。
「くぅっ！」
一瞬だが動きが止まる。それほど刺激は強烈だった。頭のなかが白く染まり、耳鳴りが脳に突き刺さる。それでも、ここで終わるわけにはいかなかった。まだ途中に過ぎない。長い道のりの、ほんの入り口に過ぎないのだから。
荒い呼吸をすること数回。肺いっぱいに空気を取り込み、それから彼は、残りの体重を一気にかけていった。
「ふ、みゃあああぁぁぁぁ……！」
めり込むような感触があり、メロディが背中を弓なりに反らす。二人の身体はぴたりと合わさり、彼はついに彼女の最奥へと到達した。焼け付くような熱さと、締めつけられるような圧迫感。わずか一回の挿入にもかかわらず、彼は重たい疲労と絶え間なく感じる刺激に目も開けられずにいた。一つに結ばれた喜びにため息が洩れる。感激に胸がいっぱいとなって、息苦しささえ覚えてくる。それと同時に、彼女の純潔を奪ったという後ろ暗い悦びに、顔には笑みが零れるのだった。こうしているだけで心地よい。ずっとこのままつながっていたい。そんな気持ちとは裏腹に、本能は貪欲に快楽を求め、彼はそれに導かれるまま腰を動かしていた。
「にゃ……っ！ みゃっ……！」
刺激に耐えながら不器用に往復させる動きなど、実際あってないようなもの。女を知らなかった彼に、特別な技量などあるはずもない。それでも腰を突き出すたびに、メロディは声を上げて反応を示した。彼女はどんな顔をしているのだろう。自分と同じ心地よさを、感じてくれているのだろうか。いや、自分はこれだけ感じているのだ。彼女もきっと、同じ感覚を味わっているに違いない。
そろそろと目を開けて、彼は頭を殴られたような衝撃に顔を強張らせた。
彼女は泣いていた。嬌声も、喘ぎも、忘我の表情もなく、あるのはただ嗚咽だけ……。結ばれるために作られた場所であったとしても、初めて男を受け入れた彼女にとっては、それは押し入ってくる巨大な異物でしかなかった。引き裂かれ、生傷をえぐられたとしても、感じるのは痛みしかない。布団を握りしめて必死に耐える姿も、健気というより痛々しい。
「あ……」
愕然とした面持ちで彼は喘いだ。一時、ほんの一時だったが、彼女への気遣いを忘れていた。初めての行為が女性には苦痛を伴うものだと知っていたのに、彼女の悲鳴も心地よさによるものと決め付けていた。快感に侵され、痛がる彼女に気づいてもいなかった。自分が気持ちよくなるため、彼女の傷口をさらに広げて……すべては、ひとりよがりの行為だったのではないのか？ 快楽を得るために、彼女を道具として使っただけではなかったのか？
体重を預けた姿勢から起き上がろうとして、彼はよろけた。その拍子に身体が離れ、結合も解けていく。
解放されたメロディはしゃくりあげ、肩を震わせながら安堵の息をついた。
「こんな、つもりじゃ……」
座り込んだ彼が、否定するように首を振る。理性が蘇り、認識された数々の事柄が彼を打ちのめしていく。怯えた瞳、耳に残る悲鳴、そして布団に散った赤い染み。同じ色の液体は、萎えかけた彼の体にも付着している。彼女を傷つけたのが、他ならぬ彼自身である証として。
「僕は……僕は、メロディさんのこと……」
冷静になるほど、自己嫌悪が深くなる。彼女と結ばれることを願っていたのは確か。だが、こんな結果など望んではいなかった。見たかったのは、彼女の喜悦――。自己満足に終わるのではなく、二人一緒に快の高みに至りたかった。苦痛を与えることなく安らかに、彼女をそこへと導きたかった。勝手だといわれようと、男の傲慢と非難されようとも、それが彼の抱く願望だった。初めて抱いた女性、初めて愛した女性、彼女を思うのは当然のこと。ある意味では、自分以上に彼女のことを考えていた。それだけに、一瞬とはいえ自分本位の行為に走ってしまったことが、彼はなにより悔しかった。
「ごめんなさい……。僕は、あなたを傷つけるつもりなんて……」
うなだれた彼の口から、震える言葉がこぼれ洩れる。
「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……！」
許しを求めるでもなく、ただ不甲斐ない自分を責めるように繰り返される謝罪。後引く痛みに涙するばかりだったメロディが、弱々しく目を上げた。
「キムちゃん……？」
「ゴメンナサイ――！」
「あっ……！」
驚きが心臓を震わせた。朦朧としていた意識が、霧が晴れるように明瞭になっていく。記憶をたどるまでもなく、彼女はその言葉が彼の口からはじめて聞かされるものだと気づいていた。堅苦しくはないものの、いつも物腰丁寧な彼の口調。謝るときの言葉は一つと決まっていた。
『スミマセン――』
謝意のこもったその言葉は、今日も何度も口にされた。歓待に対して感謝の気持ちを示すために。そして、自分のために彼女ばかり働かせていることを詫びるために。その言葉さえ変わってしまったということは、それだけ彼が悔恨の情に囚われているということ。体裁を整える余裕すらなくすほどに、自責しているということだ。
「ヤダ……」
胸騒ぎがした。彼がいなくなってしまう、そんな予感が膨らんでいく。振り返ってもらえなくなる。もう二度と、彼の顔を見られなくなる。引き留めようとしていたのに、手の届かないところへ行ってしまう。
「そんなの、ヤダぁ――！」
涙があふれた。お別れなどしたくない、ずっと一緒にいたかったのに。そのために料理を作って、部屋を掃除して、薬まで使って――恥ずかしいことも我慢してきたのに。自分を欲してくれたことで、彼はここに残ってくれるものと、そう確信していたのに……。
差し迫った不安感に、彼女は自分の気持ちを抑えることができなかった。
「いっちゃイヤなの！
キムちゃんといっしょにいるの！
メロディ、おわかれなんてしたくないのぉ！」
言葉とともに涙がこみ上げてくる。重たい塊が胸を塞ぎ、喉の奥が固くなる。声が詰まっても懸命に、彼女は思いの丈を彼へとぶつけた。
「メロディがごはんをつくってあげるの。
メロディがいっしょにねてあげるの。
キムちゃんのネコちゃんになら、メロディ、なってもいいの。
だから、どこにもいっちゃダメなの……！」
彼女の心根に触れて、彼が顔を上げる。くしゃくしゃに歪んだ表情は、まるで泣いているようだ。瞳に宿った後悔の念に、メロディの胸はずきりと痛んだ。彼が悔やんでいるのは、彼女を泣かせてしまったこと。欲望に負けて、彼女を傷つけてしまったことだ。だが、その責任は本当に彼にあるのだろうか。彼女は被害者といえるのだろうか。彼が彼女を欲したように、彼女も彼を欲していた。その懐に抱かれて、一つになることを望んでいた。実際には、それは彼女の考えとは少し違うものだったのだが、すべてを彼に委ねたのも事実だった。だとしたら、これを招いたのは彼女自身だ。彼に身体を預けたのだから、傷を負わされたとしても、それは彼女の責任だ。彼は何も悪くない。悪くない、悪くないのだ。
「キムちゃん、ないちゃダメなの……」
痛みをこらえて、メロディは重たい体を必死に起こした。なぜ彼がこんなことをするのか、なぜ自分が痛い思いをしなくてはならないのか。その理由を理解するには、彼女の心は幼すぎた。わかっているのは、彼が望んで行為に及んだということ。そして彼女の涙を見て、行為を中断したことだけだ。初めての行為、彼女にとっては心地よいものではなかったが、それでも落ち込んだ彼の顔を見るのは、もっと辛いことだった。
「メロディ、へいきだよ。
ぜんぜん、いたくないの……」
笑顔を見せても、彼の表情は変わらない。見破られて当然の嘘。どんなに思いやりをこめてみても、所詮は口先だけの強がりだ。それでは沈んだ心を慰めることなど、できるはずもない。悪いのは自分なのに、彼の苦しみは謂れのないものなのに、そんなことさえ伝わらない。
口惜しさに涙が浮かんだ。彼を想えば想うほど、逆に彼を傷つけてしまう。何かするほど、彼の苦悩は深まっていく。すべてが裏腹、希望は何一つ叶わない。悲しくて、悔しくて、張り裂けそうなほど切なくて、彼女は唇を噛みへの字に曲げた。黙って薬の飲ませたのも、体を許したのも自分なのに、どうして彼が苦しまなければならないのか。どうして彼が泣かなければならないのか。それもこれも自分のせいだ。
すすり上げる息が震えた。吸い吐く呼吸の律動が、どうにもできずに乱れていく。
「ふぇ……」
声を漏らすと、堪えることができなくなった。押し倒さんばかりの勢いで彼に抱きつき、その胸に顔を埋めて彼女は泣きじゃくった。堰を切ったように流れる涙。整理できずにあふれ出す感情。彼にかじり付いたまま、メロディはそのすべてを吐き出した。
「キムちゃんはわるくないの！
わるいのはメロディなの！
メロディ、キムちゃんにいてほしかっただけなの〜！
キムちゃんがいてくれるなら、メロディ、なんでもするの〜！
だから、キムちゃんのすきにしてほしいの〜！
メロディ、どんなことでもがまんするの〜！
メロディ……メロディ、キムちゃんのことすきなのぉ！」
「あっ！」
困惑が驚愕に変わった。抱くこともできず、ただ彼女の泣くに任せていた彼が、目を見開いて白い肩へと視線を落とす。声を張り上げ、彼女はありったけの力で彼の胸にむしゃぶりついた。
「メロディがだいてあげるのぉ！
メロディがきもちよくしてあげるのぉ！
キムちゃんのしてほしいこと、なんでもしてあげるのぉ！
だから、だから……」
泣きぬれた顔を上げて、彼女は叫んだ。
「やめちゃダメなのぉ！」
「――！」
一瞬の出来事だった。腕をつかんだかと思うと、彼は乱暴に彼女を抱き寄せ、冷たく湿った顔の上に自らの顔を重ねていた。なんの素振りもないなか取られた、不意の行動。突然のことに、彼女は最初なにが起きたかわからなかった。もがいても、彼は彼女を放そうとしない。声を出そうにも、口をふさがれ呼吸もできない。驚きが心を支配したが、唇に触れる柔らかい感触に、彼女がその正体に気づくのにさほど時間はかからなかった。
押し当てられていたのは、彼の唇――。人体のなかでもっとも柔らかい部分が、彼女の同じ場所に重ねられていた。何をするでもなく、ただ唇を合わせるだけの口付け。幼い彼女も、それが好き合う男女の行なうものだと朧気ながら知っていた。好きだという気持ちを表すために、二人が互いに交わすものだと……。すでに一度は結ばれた体。行なう順番としては逆だったかもしれない。だが、彼はそれをしようとはしなかったし、彼女も求めはしなかった。理由があってのことではない。ただなんとなく、してはいけない気がしていた。心が通じ合ってはじめて許されることだと、そんな風に思っていた。だから強引に奪うものだとしても、彼が口付けしてくれたのは自分の気持ちが通じたようで、彼女は素直に嬉しかった。
目を閉じると、涙が頬を伝っていった。さっきとは違う、とても温かいものだった。心の黒雲が晴れていく。乱れていた呼吸と鼓動が鎮まっていく。深く息を吸い込むと、メロディは自分の側からも彼に唇を押し付けていった。
「んっ」
「ん……」
二人の鼻から声が洩れる。固くなっていた体から力が抜けていく。ただ押さえ込むだけだった彼の腕が、彼女をしっかりと抱きしめてくれる。溶け合うような感覚のなか、心が温まるまで唇を重ね、そして二人はゆっくりと両目を開いていった。
時間にすれば数秒のこと。それでも二人には、もっとずっと長いことのように感じられた。縛めが解け、互いの唇を離れていく。体が自由になると同時に、夜気が肌を冷やし始める。包まれていたぬくもりが去っていくよりも、唇という小さな接点が消えたことに彼女は肌寒さを覚えた。まだ足りない。まだまだ彼と繋がっていたい。もっと自分を温めてほしい。物足りなさに嘆息し、彼女はねだるように瞳を持ち上げた。
こういう形で気持ちを表した自分に戸惑い、彼は思いに気づいてくれない。それでも彼女は、甘えた視線を彼に送った。何度も何度も、繰り返し繰り返し。
「ふみゅう……」
吐息を洩らし、メロディは寂しそうに肩を落とした。いつまで経っても、彼は応えてはくれない。待っていたのでは、この気持ちは伝わらない――。
「キムちゃん」
「え？」
名前を呼ぶと、彼女は背中をまっすぐ伸ばした。間近にある彼の顔、それだけでも唇は届く。感触を思い出しながら、彼女は目を閉じ、唇を押し当てた。
「なっ！」
驚いた彼が、反射的に彼女を突き放す。ぺたりと尻をついたまま、メロディは呆然と彼を見つめた。
「なんで……？」
一度はしてくれたことなのに。さっきは彼からしてくれたのに。なのに何故、今度は拒絶してしまうのか。どうして彼女からの口付けは、受けてくれないのか。
「キムちゃん……」
あふれそうな涙をぐっとこらえて、メロディは震える声で彼に尋ねた。
「メロディのこと、きらいなの？」
口にするだけで、胸に刃が突き刺さる。ずっと気になっていた。彼が本当に好きなのは自分なのか、それとも姉の由羅なのかと。いつも優しくしてくれるのも、自分がメロディ・シンクレアだからではなく、本当は橘
由羅の妹だからなのではないのかと。だとしたら、本当にそうなのだとしたら……。
いっぱいに涙をため鼻をひくひくさせながらも、泣くことだけは懸命に耐える彼女の姿に、彼は爪の跡が残るほど強くこぶしを握りしめた。
「そんなわけ、ないでしょう……」
食いしばった歯が音を立てる。両の肩が小さく震える。
「僕が、メロディさんのこと、嫌いなはず、ないじゃないですか……！」
顔を上げ、彼は彼女を睨みつけた。好きでなければ抱いたりしない。好きでないなら、こんなに悩んだりはしない。好きだから――他の誰より彼女が好きだから、こんなにも苦しいのだ。
「じゃあ……！」
「でも！」
泣きそうな表情でその証を要求する彼女から目をそらし、彼は床を殴りつけた。
「僕にはその資格がない！ メロディさんを好きになる資格なんて、僕には……！ 本当は、そばにいる資格だって……」
固めたこぶしが、悔しさに震えていた。彼のいう資格とは？ 彼女を好きになるために、そばにいるために必要なものとは？ 胸の奥深く、鍵をかけて押し込められた彼の心に触れたものは、まだ誰もいない――。
力なく目を上げて彼女を見つめると、彼はがくりと肩を落とした。
「僕は、弱い人間なんだ……」
独白するような呟きが、彼の口から洩れ聞こえた。外面を繕う前の彼本来の言葉、心なしかその声は、いつもの彼より幼く聞こえる。知的でおっとりとした表情も、誰にも丁寧な言葉遣いも、どちらも作り上げられた外向きのもの。無理して大人を演じてきた彼の心は、実際は脆く、不安定なものだった。塗り固めた仮面が剥げ落ちた時にのぞく顔は、無防備な子どもそのもの。
メロディは黙ったまま、その声に耳を傾けた。
「いつも適当に人に合わせて、いつも人に甘えてばかりで、嫌なことは全部人に任せて……」
普段の彼からすれば、すべてが意外に聞こえる。博識で、誰とでも話を合わせられるほどの知識があって、どんなつまらない話にも付き合ってくれて、どんなわがままも聞いてくれて、面倒な仕事も手伝ってくれる。それが彼、彼女の知るキム・ジェンファンという人物だ。そのすべてを……苦労して築き上げてきたそのイメージを自ら否定しながら、彼は両手を握りしめた。
「この街に来たのも発掘が目的じゃなくて……本当は、逃げてきたんだ」
好きなことに没頭していれば、嫌なことも忘れられる。所縁のない土地へ行けば、本当の自分を知られずにすむ。遠く故郷から離れたアカデミーに入ったのも、三月もかけてこの街に来たのも、すべてはそのため。弱いといえばその通りだが、これが彼に選びえた唯一の道だった。うわべの付き合いで真意をごまかし、傷つく前に逃げ出すことで、彼は自分を守ってきたのだ。
「それに僕は、魔法が使えない……」
そうでなくても翳っていた声が、その一言でさらに沈む。
「誰にだって……学校に通わなくたって使える力なのに」
悔しさをにじませ、彼は奥歯を鳴らした。
「僕は、出来損ないの人間なんだ。だから……！」
吐き出されたのは、自虐と呼ぶにもひどすぎる言葉。顔に浮かぶのは、自己嫌悪と呼ぶにも余りあるほどの激しい感情。自分の価値を否定するほど、彼の抱えた傷は根深いものだった。この傷が、深く刻み込まれた劣等感が、彼に彼女を拒絶させるその元凶――。
やり場のない気持ちをぶつけることもできず、彼は黙り込んでしまった。沈黙が耳にうるさい。空気が重い。
「でも……」
訪れる静寂のなか、メロディはぽつりと口を開いた。
「キムちゃんは、キムちゃんだよ？」
「――！」
彼が弾かれたように顔を上げる。不思議そうな声。きょとんとした表情。小首をかしげた彼女から、深刻さは感じられない。
「まほうがつかえなくても……メロディのだいすきな、キムちゃんだよ？」
そう言って、彼女は少し微笑みを浮かべた。彼女はまだ、難しい話は理解できなかった。彼の苦しみを教えられても、共感するには至らなかった。好きだから……ただ彼のことが好きだから、一緒にいたいと望んでいるだけのこと。魔法を使えないからといって、その気持ちは減じたりしない。補って余りあるものを、彼女は彼に感じていた。
「まほうって、そんなにたいせつなのかなぁ？ あたまがよくって、やさしくって、おひさまみたいにあったかくって……。それだけあればキムちゃんだよ？」
「メロディさん……」
天使のような澄んだ笑顔。当惑していた表情が緩み、彼もつられて笑顔になる。凝り固まっていたものが解けていく。心が軽くなっていく。わだかまりが消えると同時に、彼はそれまで漠然と抱くだけだった好きという感情の理由を、はっきり自覚するのだった。好きになったのは、彼女がかわいいからでも、人とは違う姿をしているからでもない。彼女に惹かれたのは、ひとえに天から与えられた素質のゆえ。疑うことを知らず、他人と比較することも知らず、あるがままを認められる純真さ。魔法が使えないという事実でさえ当然のことと受け止めてくれる彼女に、彼は心の平安を得ていたのだ。
「ありがとう、メロディさん……」
彼女の肩へと腕を回し、彼は冷えかけた体を優しく抱きしめた。
「とっても、とっても……嬉しいですよ」
魔法が使えないことにこだわりすぎていた。意固地になって見落としていた。言葉にしたりはしなくても、彼女がいつもそうして接してくれていたことを。打算も同情も憐れみもなく、彼を彼として見てくれていたことを。魔法が使えないことで差し引いたりせず、彼の価値を認めてくれていたことを。だから好きになったのに。別れたくないと思っていたのに――。
自分の愚かさに苦笑し、それから彼は安堵ともとれるため息をついた。
「メロディさんがもし、これからも僕のことを同じように思っていてくれるのなら、僕は……」
「え？」
思わせぶりに言葉が切れる。抱擁から抜け出し、メロディは彼の面を確認した。大人の仮面はついていない。少年のような素顔のままで、彼は黙って微笑むだけだ。
「じゃあ……」
彼女の問いかけに、彼はこくんとうなずいた。温かさをたたえた柔和な眼差し。茶目っ気を含んで緩んだ口元。何よりもその表情が、彼の気持ちを表している。満面に喜色を浮かべ、彼女は彼の胸に飛び込んだ。
「うっわーい！ キムちゃん、キムちゃん！ ゴロゴロ……」
歓声を上げ、喉を鳴らし、頬をすり寄せる。一緒にいられる。彼と、これからも。ずっと、ずっと！ 嬉しさを全身で表し、彼の胸に耳を押し当て、彼女は喜びに浸った。髪を撫ぜる指先の感触。耳に伝わる穏やかな鼓動。顔を見上げると、彼は優しく微笑み返してくれる。永遠に続くことを願ってやまない至福の時間――。
「あさおきて、ごはんたべて、おひるねして、おふろはいって……あしたも、つぎのひも、そのつぎのひも……」
彼の体をぎゅっと抱きしめ、メロディは隠れるように吐息をこぼした。
「ずっとずっと、いっしょなの……」
甘えるような囁きに対し、彼は言葉で答える代わりのように頭を撫で続ける。気持ちを代弁するような、愛情こもった手の動き。広がっていく安心感。解けた緊張が眠気に変わって、心地よいまどろみへと彼女をいざなう。夢とうつつを行きつ戻りつ、重たい視線を持ち上げて、彼女はふっと微笑んだ。目覚めたとき、きっと彼はいてくれる。今と同じように、彼女の体を抱きしめたまま。もう何も心配することはないのだ。布団より温かい彼の懐で、ぐっすり眠っていい。
「キム……ちゃん……」
まぶたを閉じ、メロディは気だるい体に残った最後の力を使って、彼へと唇を近づけていった。
「メロディさん」
気づいた彼が、人差し指を使ってそれをさえぎる。触れる直前、あと少しのところだったのに。不満そうに目を開ける彼女に首を振り、彼は彼女を抱いたまま布団の上へと体を倒した。
「そういうの、して欲しいわけじゃないんですよ」
彼女の作ったくぼみに体を収め、彼が彼女の腕を取る。
「もし、一つだけ僕のわがままを聞いてくれるのなら……」
そう言うと彼は、白い毛の生えた彼女の手を自分の頬にそっと押し当てた。
「ふみぃ？」
彼の胸の上で、メロディが首をかしげる。他にもいろいろできるのに、頬に手を当てるだけの、そんなことで彼は満足なのだろうか。柔らかい猫毛に頬ずりしながら、彼は一人悦に入っている。女気のない人生を彼が送ってきたのは確かな事実。だが彼の生活に欠けていたのは、女性の肌のぬくもりではなく、むしろ母性的な優しさだったのかもしれない。彼が求めていたのも、体のつながりよりも心のつながり、プラトニックな愛情……。
幸せそうな顔を見ながら、彼女も目を閉じていった。彼が望むならそれでいい。朝まで頬に触れていよう。彼が幸福でいることは、自分にとっても喜びなのだから。
裸で重なり合ったまま、二人は眠りに落ちていった。幸せの続きは夢のなかで、どちらもそんな風に考えていた。
それなのに――。
「ん……」
眠りきれず、メロディは腰を動かした。傷の痛みは治まったのに、おなかの奥がうずいている。湿り気を帯びたむずがゆさが、どんどん大きく広がっていく。力を入れてもお尻を振っても、疼きはどこにも消えてくれない。彼と結ばれたときのあの感触、そればかりが頭に浮かぶ。痛かったのに……ものすごく痛かったはずなのに、同じ痛みを求めてしまう。せっかくいい気持ちでいられたのに、この疼きがなくならない限り、とても眠れそうにはない。
「キムちゃ〜ん……」
切ない声で呼びかけながら、彼女は彼を揺すり起こした。最初は弱く、次は少し強く。うとうとと夢の入り口を漂っていた彼が、何事なのかと薄目を開く。
「どうしたんです？」
眠そうな問いかけは、形だけのものだった。聡い彼のこと、わざわざ尋ねなくても、何をねだっているかはすぐに分かる。眠気を払い、必死の眼差しを受け止めながら、彼は少し困ったように顔をしかめた。
「僕は、別に……」
「メロディが、してほしいの〜！」
聞く側が困惑するほどの、あまりに真っ正直なその言葉。切実な思いをぶつけられ、彼は苦笑するより他になかった。彼女を抱きたい気持ちはまだ残っている。火照りも完全に冷めてはいない。身体が目当てではないのだと言い聞かせても、男の心は彼女を求めてしまう。抱くために好きになったわけではない。それでもやはり、好きだから抱きたい。
硬くなってしまった自分の一部に、彼は自嘲気味にため息をついた。この体くらい素直になれたら、きっと人生、もっと楽なものになるだろう。つまらないことで悩んだり、相手の気持ちを深読みして、勝手に傷つくこともなくなるはずだ。
「わかりました」
彼女の頬を撫でながら、彼は柔らかく微笑んだ。今だけは、この気持ちに素直でいよう。彼女が好きだという気持ちにも、彼女を抱きたいという願望にも。好きな女性といる今だけは、自分のことを好きだといってくれる、彼女の一緒にいられる今だけは。少しくらいわがままでなければ、恋愛などできはしない。もしそれで彼女を泣かせることになったとしても、その時はすべてを背負えばいい。彼女を傷つけた罪も、彼女を汚してしまう罪も――。
体位を入れ替え、彼は彼女を布団に横たわらせた。いままで自分の収まっていた、小さな窪みのその中へと。手を突き、覆いかぶさるようにして彼女の顔を上から見つめる。ぬくもりの残る布団の上、体をくねらせ寝心地を整えてから、メロディは恥ずかしそうに彼を見つめ返した。
「キムちゃん……」
「怖くは……ないですか？」
期待と不安の入り混じった表情に、彼が優しく尋ねてくれる。この優しさこそ彼の彼たる所以、仮面を使っても隠せない彼の本質だ。触れるたびに、胸がぽかぽかと温まっていく。手放したくない、ずっと感じていたいこのぬくもり。
「うん……」
頬に朱をさし、彼女は小さくうなずいた。
「キムちゃんだから……へいきなの……」
言ってから、恥ずかしさに体が熱くなる。身もだえする彼女をかわいく思いながら、彼はそっとその肌を抱きしめた。しっとりした柔らかさに胸が高鳴る。そのぬくもりにため息が零れる。全幅の信頼を寄せてくれるのは自分だから。自分のことを信じているから、彼女はすべてを委ねてくれる。
「自惚れて、いいんですよね？」
「ふみぃ？」
耳元で発した質問は、彼女にはまだ難しかったかもしれない。彼の下で、メロディが首をかしげる。
「何でもありませんよ」
頭を振ってその言葉を打ち消しながら、彼は一度その手を離した。
「メロディさん……」
二つの視線が交わり重なる。見つめ合う互いの目と目。それぞれの顔が映りこむ瞳の奥では、同じ感情が燃えている。吸い込まれそうな水晶の輝きに鼓動が高まり、静かな興奮に胸が締めつけられる。
「今度は乱暴にならないよう気をつけます。だから、一つだけ……」
緊張に微笑みの底を硬くしながら、彼は彼女の瞳をのぞきこんだ。
「メロディさんも、僕のこと……抱きしめていてくれますか？」
神経を集中させた時だけ見せるような真剣な眼差し。唇を湿しながら、殊更ゆっくりと紡がれる言葉。面に表れる深刻さに対して、口から出るのはあまりに簡単な頼み事だ。これから行なうことを考えれば、していて当然といえる行為。わざわざ頼むことでもない。それを敢えて口にしたのは、同じ過ちを繰り返さないためだったのか。それとも彼女からも何かして欲しいという、そんな思いのゆえだったのか。
「うん……」
思いつめた彼に両目を瞬かせていたメロディは、うなずきながら笑顔を返した。ほっとした様子で表情を緩め、彼が肌へと手を伸ばしてくる。
「あ、まって……！」
抱きすくめられそうになり、メロディは慌てて身をよじった。
「メロディも、おねがいなの……」
はにかみ、上目の視線を彼へと送る。
「メガネ、かけててほしいの……にゃ？」
甘えるように囁いて、彼女は頬を赤く染めた。眼鏡があってもなかったとしても、彼が彼であることに変わりはない。そんなことはわかっている。けれども眼鏡をかけた彼ばかり見ているせいか、眼鏡がないと何かが違う。選ぶことができるのなら、見慣れた彼に抱かれたかった。
控えめなおねだりの裏にある思いを察して、彼は穏やかな微笑みを見せる。それから枕元に目を動かして、投げ出していた眼鏡を手に取った。彼女にとっては彼の一部。そして彼にとっては、視力を正すものであると同時に、本当の自分を隠すための道具。顔に装着することで、彼はようやくいつもの彼に戻った。
「これで、いいですか？」
細部まで判別できる鮮明な視界。裸の彼女を目に捉えて、彼は今さらのように赤面する。その表情、その仕草。元通りの彼の姿に、メロディが嬉しそうに目尻を下げる。
「じゃあ、メロディさん……」
改めて、彼は彼女の体を抱きしめた。
「うん……！」
応えるように、メロディも彼の背中に腕を回す。
柔らかな抱擁のなか、短く口付けを交わして、二人はじっと見つめ合った。
「痛かったら、言って下さいね」
「うん……」
「我慢だけは、しないで下さいね」
「うん……」
「絶対に、僕を離さないで下さいね」
「うん！」
愛しい少女の返事を聞き、彼は両腕に力をこめた。密着する身体、伝わる鼓動。互いの器が重なり合い、口から吐息がこぼれていく。
感触だけで入り口を探し、彼は深く息を吸い込んだ。
「いきますよ……！」
「ん……！」
うなずいたメロディが体を強張らせる。肉に触れる異様な物体。入り込んでくる彼の身体。拓かれたといっても均されてはいない彼女の道に、彼のそれは大きすぎる。頭が内側から痺れ、耳の奥で音が響く。手足の指先を丸めながら、彼女は彼の背に爪をつき立てた。
「大丈夫、息を止めないで。力を抜いて……！」
刺激をもたらす窮屈さと爪の刺さる背中の痛みに、彼がかすかにうめきを洩らす。体に力が入っていたのでは、彼とて続けるのは楽ではない。二人揃って苦しいだけだ。助言を受けて、メロディは途切れ途切れに息を吐き出した。
「ん、んんん……！」
合間を縫うように、彼は身体を押し込んでいく。緩めば押し込み、押し込めば締まる。しばらくはそれの繰り返し。震える肌を抱きすくめ、自らも刺激に耐えながら、できる限りゆっくりと、彼は時間をかけて体を進めていった。
「クッ、メロディさん……！」
「にゃっ、はっ、はぁ……っ！」
奥までたどり着き、そこでようやく進行が停止する。たまっていた息を一気に吐き出し、メロディは胸を大きく上下させた。自分の中に彼を感じる。膨らまされたおなかが苦しい。失った酸素を取り戻すように喘いで、喘いで……彼女は彼の背中をぎゅっと抱きしめた。
「だい、大丈夫ですか……？」
いたわりの言葉を投げかけながら、彼もまた大きく喘ぐ。彼女のなかは熱く狭く、それでいて柔らかい。彼を優しく包んでくれる。その心地よさ、気を抜けば無理にでも動いてしまいそうになる。同じ結果にならないよう欲望を鎮め、彼はただひたすらに、彼女が慣れる時をじっと待った。
「キムちゃんんっ……！」
彼にしがみついたまま、メロディは体を震わせる。おなかを内から押される圧迫感。痺れるように広がる痛み。一度は緩んだ指の力が、息みに合わせてまた強くなる。膝を立て、彼女は逃げようとするかのように、両足をぐっと踏ん張った。
「痛いなら、やめましょうか？」
その動きを身体で感じ、心配そうに彼が尋ねる。
瞳に涙をためたまま、彼女はふるふると首を振った。
「キムちゃんだから、へいきなのぉ！」
駄々をこね、胸を体を押しつける。放したくなかった。こうしていれば、彼の優しさを感じられたから。二人で一緒にいるのだと、実感することができたから。痛くないかと気遣ってくれる。我慢するなと言ってくれる。何よりこうしている間は、おなかのムズムズも消えてくれる。
「キムちゃん……」
涙声をごまかして、メロディは彼の耳に囁いた。
「うごいて、いいよ……？」
言葉の途中で息が震える。細めた両目の端の方から、たまった涙がこぼれていく。彼女はまだ、この行為が何かは知らなかった。なぜ行なうのか、どうすればいいかも分からなかった。ただ一つ、身体の繋がり結ばれた彼が、おなかの中で動きたがっているということだけは、すでに彼女も気づいていた。時おり重心を変えることで、彼はおなかを押し上げてくる。定期的に、ほとんど同じ間隔で。慣れるのを待つといっても、刺激を求める本能は抑えきれないのだろう。動作は小さく受ける刺激も弱いものだが、それは彼女が痛みを感じないよう気をつけているから。本当はもっと大きく、激しく動きたいはずだ。
「キムちゃんのしたいように……していいよ？」
声色に笑みさえ感じさせながら、彼女は爪を立てるだけだった指先を伸ばして、彼の背中をそっと抱きしめた。無理していないと示すために、自ら腰も振ってみせる。耳を寝かせ吐息をこぼして、彼女はのぞきこむ彼の顔を見つめ返した。
「いいんですか……？」
強がりを見抜こうとするかのように、彼は今度も確認を取る。彼女がうなずいても、すぐに動こうとはしない。彼女を見つめ心根を探って、そして、それから、彼は少しだけ腰を引いた。
「じゃ……動きますよ？」
「ン……」
おなかが軽くなった安堵からか、彼女の返事はどこか艶っぽい。はにかんだ微笑みが、あどけない顔に色気を添える。それでも緊張しているのだろう、背中に回った手に力が入るのを感じながら、彼はゆっくりと腰を押し出した。
「にゃあッ！」
爪をつき立て、メロディが悲鳴をあげる。続けてもう一度。焦らないよう腰を引き、同じ速さで突き出していく。
「みゃあッ！」
奥に達したその後で、一瞬遅れて彼女がのけぞる。やはり慣れてはいないのだ。意図せざる反応も、緊張した筋肉の収縮によるもの。心は受け入れようと努めていても、体はその限りではない。意識に反して力が働き、身を守ろうと抵抗を示す。だがそれは、完全に生理的な、反射的なものなのだろうか。本当のところは彼女自身、痛みに対する恐怖を拭いきれていないのではないか？
強張り震える身体を抱きしめ、彼は彼女の表情を確かめた。
「メロディさん……」
「へいき、なの……っ！」
声を詰まらせながらも、彼女は強がりをやめない。両手にしっかり力をこめて、彼の体を放そうとしない。
「つづけて……キムちゃん……」
苦しい息の下、それでも必死に笑顔を作り、彼女は彼を促した。我慢していることは一目でわかる。引きつる笑顔が胸に刺さる。彼女のことを思うなら、今日のところはここで終えて、傷が癒えるのを待つべきだろう。だが、この行為に彼の優しさを感じているメロディは、それを望んでいはしない。いまの彼にできるのは、可能な限りの弱い刺激で、彼女の恐怖心を取り除いていくことだけだ。
小さくうなずいて、彼は単調な往復を繰り返した。
「ん……にゃっ！ ふ……みゃぁっ！ ぁ……ッ！」
おなかを突くたび、彼女の口から声があがる。進入に耐える長い息みが、止まったところで悲鳴に変わる。彼は決して急がない。息を吐きながら体を押し出し、腰を引くとき大きく吸い込む。往復の間隔は深呼吸とまったく同じ。理性で本能を制しながら、彼は一定のリズムで運動を続ける。意識を集中しているためか、肉の摩擦で感じる刺激も脳までは到達しない。胸を締めつけるような興奮も、肩から下で燃えるだけだ。怯えや苦痛を含んだ悲鳴も、彼の欲望をかき立てはしない。
「ん……っ！ にゅ……っ！ みゃぁあ……っ！」
これでちょうど十回目……。
頭のなかで数えながら、彼はゆっくりと運動を続けていった。
灯りに照らされた部屋のなか、メロディの悲鳴だけが短く響く。虫の声も風の音も、二人の耳へと届いてこない。閉ざされた空間で、彼女はじっとりと汗をかいていた。電流の走ったのは最初だけ。だが、ともった炎は消えてはいかない。彼の動きに煽られて、ますます大きく燃え盛る。
「にゃぅ、ん……！」
二十を超えたあたりから、悲鳴に変化が現れた。奥から吐き出されていたものが、ずっと浅いものになる。声にあった力が抜けて、徐々に吐息が混じり始める。
「メロディさん……ッ！」
「にゃっ！ ふにゃあぁぁ……」
試みに強く突き上げると、彼女は短い悲鳴に続けて甘い息を吐き出した。身体も弛緩し、緊張の色も見受けられない。彼を抱きしめていた二つの手も、今は背中に添えられただけだ。痛みとは違う新たな何かを、彼女は確実に感じ始めていた。これならもう心配いらない。二人揃って快にひたれる。
「少し、速くしますね」
「え？ あっ！ みゃあ！」
宣言して、彼は腰の動きを速くした。刺激が消えてからではなく、刺激が消える前での往復。突き出し、すぐ引いて、止まることなく繰り返す。
「みゃっ！ ひゃっ！ にゃああッ！」
終わらぬ刺激に支配されて、メロディは大きく背中をのけぞらせた。
「キ、キムちゃん！ メ、メロディ、へ、へんなのぉ……！」
彼の体にしがみつき、初めての感覚に戸惑いを見せる。すでに痛みは感じない。すべてが心地よさへと変わっていく。おなかに感じる圧迫感も、中の肉をこすられる刺激も、脳の奥の痺れでさえも、鳥肌が立つほど気持ちいい。
「僕も、同じですよ。メロディさん……！」
息を切らせながら、彼はさらに速く腰を動かした。初体験でのつたない動き。速いといっても限度がある。それでも一回動くごとに、快感は一段飛ばしで昇ってくる。脊椎から頚椎へ。頂点に達するのも、それほど先のことではない。
「キムちゃん！ キムちゃんッ！ にゃっ、あっ、んっ、みゃあ……っ！」
彼の腕のなかで、メロディもまた限界を迎えようとしていた。甲高い悲鳴をあげ、切迫した呼吸に喉を干上がらせ、震えるような痙攣を見せる。力むあまりに腰を浮かせ、爪先立ちとなって背中を反らす。快感はもはや飽和状態、脳だけではなく心さえも、じわじわ侵食し始めている。溢れる先などありはしない。身体を満たし、それでもなお膨らみ続けて、彼女を頂へと追い上げていく。
「ヤっ！ ひゃっ！ はッ！ んく……っ！」
渇いた喉に唾を飲み込み、彼女は彼の背に爪を食い込ませた。ぷくりと浮かぶ赤い玉。皮膚の破れる痛みにも、彼は呻き一つ洩らさない。歯を食いしばるだけで、その手を払おうともしない。この行為の代償として、傷も、痛みも、無言のまま受け止める。それは何も知らない彼女を抱いたこと自分に、彼が自ら科した罰――。彼女はまだ知らない。この行為が何なのかも、彼に対して抱いているその想いの本当の意味も。
彼女が彼に特別な気持ちをもっていることは、紛れもない事実だった。彼女にも自覚はあったし、周囲も薄々感じ取っていた。彼女がそのことを口にするとき、親しい友人たちは「恋だ」と言って冷やかしたものだ。けれどもどんなにからかおうとも、彼女が言われるまま自分の気持ちを“恋”だと思い込んでも、真実は違っていた。彼女が彼に感じているのは、由羅に感じる“好き”と同質のもの。彼女にとって彼の存在は、“兄”と呼ばれるものに他ならない。そのことに気づいていたのは、彼だけだ。
「キムっ、キムちゃん！ メ、メロ、メロディ、もう……っ！」
うつろな瞳を天井に向けて、メロディは激しく、何度も喘いだ。言葉を発しようにも、口の動きが呼吸と合わない。舌がもつれて、言いたいことの半分も言えない。首の後ろがチリチリして、意識がどこかに飛んでしまう。
引き留めるように強く抱きしめ、彼は無言で腰を往復させた。最初から分かっていた。彼女が求めていたのは恋人ではなく、一緒にいてくれる家族なのだと。身体を許した今でさえ、自分を男とは見ていないのだと。彼女はまだ、家族と恋人に向ける愛情を区別できるほど、心が成熟してはいない。幼い少女が父親や兄弟と結婚したいと悪意のない願望を抱くように、彼女にとっては家族も恋人も、まったく同じ存在なのだ。だからどれだけ肌を重ねようとも、その結果として子を生すことになったとしても、奪えるのは身体だけ。心までは奪えない。彼女を愛する彼の気持ちは、最後まで一方通行のままだ。
「ああああああ……ッ！」
胸が潰れるような絶望感に、彼は叫んでいた。静めていた心が大きく乱れる。爆発する感情に、保ってきた抑制が崩れていく。単調だった動きが一転、激しく乱暴なものへと変わる。悔しさをぶつけるように突き上げて、そこからさらに押し込んでいく。二度、三度、一息置いてもう一度――。じわじわ追い上げられていた彼女に、それは十分すぎるほどの刺激。おなかの底が熱くなり、上体が伸びあがる。反り返った背筋が硬くなる。深いところを叩かれるたび、頭のなかで光が瞬く。
「にゃっ！ あっ！ あっ！ アッ！」
短く鋭い声を上げて、彼女は体をぐっと縮めた。全身に電気が流れる。無数の光が集まって、目の前で炸裂する。
「ふにゃあぁぁぁぁ……ッ！」
彼が浮かび上がるほど体をのけぞらせ、メロディは一際大きな悲鳴を発した。筋肉が痙攣し、おなかの中がきゅっと締まる。
「く、ぁ……ッ！」
遅れて達した彼は、しがみつく彼女を振りほどき、慌てて体を引き抜いた。間一髪、白い塊が吐き出されたのは、彼女の外だ。
「あ、ああ……あああ……」
布団の上に両手をつき、彼は搾り出すように息を吐いた。快の波が引いていき、重たい疲労がのしかかる。立ち上がるだけの力も出ない。半ば失神したメロディも、彼の下で浅い呼吸を繰り返す。
「はぁぁ……あぁぁ……はぁぁぁ……」
「ハ……ッ！ ハ……ッ！」
「はぁ……はぁ……」
彼女の引きつるような息遣いを聞きながら、彼は気息を整えていった。他のことは考えず、目を閉じて、残った力のすべてを費やして、今はただ回復に努める。深く深く空気を吸い込み、意識しながら長く吐き出す。心は落ち着き始めても、体がそれについてこない。肺が震える。胸にぽっかり穴が開く。舌の奥が盛り上がって、喉をすっかり塞いでしまう。こんな感覚、久しぶりだ。
「あ……」
頬に触れられて、彼は自分が泣いていることに初めて気づいた。幼いころ、魔法が使えないことをからかわれ、いつも流していた涙。当たり前になりすぎて、いつしか流せることすら忘れていた涙。親の死に目に際しても、もう流すことはないと思っていたのに……。その涙が両目から流れて、彼の頬を濡らしていた。
「メロディ、きもちよかったよ……？」
彼の頬へと手を伸ばし、メロディが潤んだ瞳を微笑ませる。汗と涙に湿った顔、浮かんでいるのは屈託のない笑顔。焦点のぼやけたかすみ目では彼の表情などわからないはずなのに、慰めるように頬を撫ぜる。
「…………」
泣き笑いの顔になりながら、彼はその手に自分の手をそっと重ねた。
「僕も、ですよ……」
頬を埋めた白い毛のなか、柔らかい感触にため息がこぼれる。胸のしこりが消えていく。心の隙間を埋めてくれる、肌とは違った穏やかな温もり。涙が止まるまで心を満たし、それから彼は背中の下に腕を入れて、彼女の体を抱き起こした。途中、額に優しく口付けしながら……。
「ふみゃぁ……」
唇の触れるくすぐったさに、メロディが小さく身もだえする。脱力した彼女を座らせると、彼は体に付着した汚れを一つ一つぬぐっていった。彼女の流した分泌液も、彼自身の吐きかけた白濁液も、ちり紙を使ってふき清める。慣れない手つきで後始末を続ける彼の姿を、彼女はぼんやりと見つめていた。筋肉質とはいえないものの、男性の特徴をしっかり備えた彼の身体。そこにある男の証は、彼女の初めて目にするものだ。さっきまであの部分で繋がっていたのだと思うと、メロディは恥ずかしさのある反面、少し嬉しくもあるのだった。
作業の手を止め、彼が彼女の顔色をうかがう。眠気に直結した疲労感に頭を揺らしながら、彼女は微笑みを返した。事の終わった今でも、彼の手指は優しいまま。いたわりをもって接してくれる。今度こそ眠れそうだ。彼に抱かれ、安らぎに包まれて。
「由羅さんが帰ってくる前に、お風呂入りましょうか。体をきれいにして、少し温まらないと」
手の甲で頬を撫でてくれる彼の声は、眠りにいざなう子守唄のよう。幸せそうな笑顔のまま、彼女は小さく首を振り、彼の胸へと体を傾けた。
「メロディ、つかれたの……」
吐息とともに、全身の力が抜けていく。彼に体を支えられて、意識がゆっくり乖離していく。胸板に頬をすり寄せ目を閉じると、彼は冷えた背中を優しく抱きしめてくれた。
「じゃ、少し休みましょうか」
「ウン……」
彼女を包み込んだまま、彼はその身を横たえる。乱れたシーツのその上へと。二人の汗を吸い込んで、布団は少し湿っぽい。夜の空気とあいまって、徐々に体温を奪っていく。肩まで毛布を引き上げると、メロディはすっぽり頭まで毛布に埋もれてしまった。
「ふにゃあ〜……」
もぞもぞ動いて顔をのぞかせ、メロディが甘えたような鳴き声をあげる。肩を抱き寄せ腕と毛布でしっかりくるむと、満足したのか彼女は目を閉じ、長く息を吐き出した。
「めがさめたら〜、いっしょにおふろはいって〜、それから〜……」
眠気のせいだろうか、いつも以上に語尾が延びる。まどろみかけた意識を引き戻して、メロディは眠りに落ちる直前のとろんとした目を持ち上げた。
「きもちいいの、もういっかい、しよ……？」
舟漕ぐ彼女の口から出てきたのは、あまりに突拍子もない言葉。呆気にとられていた彼は、ややあって、こらえ切れなくなったようにククッと笑い始めた。
「まったく、メロディさんにはかなわないですよ」
最初で最後のつもりでいた。二度も許してもらえるとは思ってもいなかった。彼女は分かっているのだろうか。これが男を引き止める、もっとも有効な方法だということを。責任感の強い彼がここまでされて、彼女を裏切れるはずがないということを。分かってやっているならタチが悪い。だが、知らずにやっているのだとしたら、なおのことタチが悪い。
「それじゃ、後でもう一回……」
「うん……」
約束すると安心したのか、彼女はゆっくりと目を閉じていった。返事を聞こうとがんばっていたのだろう、すぐに寝息が聞こえ始める。寝入りを邪魔しないようしばらく待って、彼は彼女の髪をそっと撫でた。
「本当の恋人になれたら、その時にね？」
寝顔に向けた小さな囁き。答えなどあるはずもない。彼は自嘲的な笑みを浮かべ、絹糸のような髪の毛を指に巻きつけた。サラサラ、サラサラ――。どんなにその手に絡めとっても、滑らかな彼女の髪は指のあいだからこぼれ落ちていく。思いどおりにならないその様がいまの彼女の心のようで、彼はただ笑うしかなかった。
どこかで割り切っていたはずだった。彼女との関係は、恋人未満のものなのだと。兄と思ってくれなくてもいい。好きでいてくれるなら、友人であってもかまわない。彼女の想いがどうあろうと、自分の心は変わらないのだから。それなのに、今になって気持ちが揺らいでいる。彼女の心を独占したいと、勝手な欲望が膨らんでくる。それは彼女を抱いたから？ それともこの街に残ると決断したから？
「きっと、その両方なんだろうな……」
ふっと短くため息をこぼし、彼は彼女と額を合わせた。彼女をその腕に抱いたのは、純粋に彼女が好きだったから。そしてこの街に残ると決めたのも、それだけ彼女が好きだったからだ。アカデミーに帰れば将来は約束されていた。留学や引き抜きの話も、すでにいくつか届いていた。この街での発掘結果を発表すれば、彼は学会でも知られる存在になったはずだ。そうなればもう、誰も彼を馬鹿にはできない。魔法を使えぬ彼であっても、胸を張って生きていける。名声に博された、輝ける未来だ。そのすべてを捨てられるほど、彼女に向けられた彼の気持ちは大きなものだった。
彼女が欲しい。自分のものにできるのなら、地位も名誉も失ってもかまわない。それは思考によっても左右されることのない、心の奥底から生まれてきた感情。あらゆる事柄を理性で判断してきた彼の、はじめて抱いた恋心だった。それゆえに強く、どこまでも純粋で、思いを巡らせれば巡らすほどに大きくなっていく。もはやどんな言い訳も、本音に対するごまかしにはならない。理性で自分を見つめなおして、彼はしっかりと己が本心を胸に刻んだ。
「僕は、メロディさんが好きです。他の誰より、あなたのことが……」
好きなのだから、好きでいてほしい。これだけ好意を寄せているのだから、同じ気持ちを抱いてほしい。それは見返りを求めているからではなく、愛しているがゆえの願望。恋するものの密かな願いだ。
「難しく考えること……なかったんですね」
分かってしまえば簡単なこと。肩の力が抜けるようで、彼は短く笑い声を上げた。
「そういえば……荷物、もう送った後なんだっけ」
胸が軽くなるのと同時に、いまの状況が浮かんできた。生活道具とその他一式、すでに馬車にて送り出している。手元にあるのは数日分の着替えと身の回り品、そして決して手放せない一冊の本だけだ。新たな生活を始めるにしても、これではあまりに心許ない。発掘の報告もある。アカデミーを続けるにしても辞めるにしても、一度は戻る必要がありそうだ。
「アカデミーまで三ヶ月。戻ってくるのに三ヶ月。半年だけは、お別れですね」
彼女の寝顔を抱きしめながら、彼も両目を閉じていった。半年間――ずいぶん長い気もするが、その先には彼女と一緒の生活が待っている。そう思いさえすれば、別離もそれほど苦にはならない。自分は彼女を愛している。そして形は違えども、彼女も自分を好いてくれている。ならばそれでいいではないか。細かいことにはこだわらず、事実の表面だけ見つめていても。いつか彼女も恋を知るはず。そのとき彼女に選ばれるのは、自分ではないのかもしれない。けれどもそれでもかまわない。小さな可能性に想いを託して、その日を待つのも悪くはない。時間はたくさんあるのだから。通過点のつもりだったこの街で、一生を過ごしてもいいと思える今ならば――。
「待ってますよ、あなたのこと。ずっとずっとね……」
幸福な未来を想像しながら、彼も眠りに落ちていった。