始まりのセットアップ

「さて、と・・・」
　ある休日、男は愛用のパソコンの前にどっかと座り込んだ。
　パソコン周辺は様々な物が散らばり雑然としていたが、その中で１ヶ所だけ
整理の行き届いた場所があった。パソコンに接続された神姫用グレイドル（充
電装置）が置かれた場所だ。そこには一体の神姫―先だって購入した天使型アー
ンヴァルタイプ―が横たわっていた。その胸部カバーは外され、神姫の心臓部
というべきＣＳＣ（コアセットアップチップ）基盤が剥き出しになっていた。
　神姫を扱うようになって長い者であれば、それだけでこのアーンヴァルタイ
プがセットアップ前の神姫である事に気付いたであろう。一度セットアップさ
れた神姫の胸部カバーは、例え充電中であっても開けられるものではないから
だ（例外はメーカーが修理のため所定の手続きを行った場合か、神姫にとって
の死を意味するリセットを行った場合のみ）。
　そう、男は購入した神姫のセットアップをしていたのだ。
　パソコンにインストールした神姫用メンテナンスソフトの画面には、グレイ
ドルに横たわる天使型アーンヴァルのセットアップ準備が進んでいる事が表示
されていた。あとはＣＳＣと呼ばれる小型の結晶体を３個セットするだけであっ
た。
「まずは、買ってきたキャッツアイ、っと・・・」
　男は呟くと、ケースに収められていたビーズほどの大きさの球体をつまみ上
げ、ＣＳＣ基盤の３つ存在するくぼみの１つにセットする。すると少し遅れて
パソコンから機械音を模した電子合成音が鳴る。同時に機動力を引き上げるキ
ャッツアイがセットされた事がソフトの画面に表示された。
　その事を確認すると、彼は続けてアーンヴァルの箱に収められていた標準的
なＣＳＣ４個−ルビー、サファイア、エメラルド、トパーズの４種−から、照
準能力を向上させるサファイアと出力を向上させるルビーを続けてセットする。
キャッツアイの時と同様に、パソコンから音が鳴り、画面にそれぞれのＣＳＣ
がセットされた事が表示される。その画面表示と、ＣＳＣ基盤の双方を何度も
確認すると、男は最後にＣＳＣが納められていたケースのラベルの文字を見た。
一度セットアップを終えてしまうと、リセットするまでＣＳＣを変更すること
は出来ないので慎重であった。
（ふむ、間違いはないな）
　自分が選んだＣＳＣがセットされている事を確認した彼は、アーンヴァルの
胸部カバーを規定の位置に置いた。続けて、「ＣＳＣを確定し、神姫を起動し
ますか？」というメッセージウィンドウに表示された「はい」というボタンに
ポインタを重ねると、彼はマウスをクリックする。
　直後、胸部カバーと本体の隙間からわずかに光が漏れる。モーターの駆動音
が数秒間、小さく鳴り響くと、その光は漏れなくなった。胸部カバーが固定さ
れたのだ。そして、目を閉じたままのアーンヴァルの口から、初めての声が発
せられた。
「Ｆｒｏｎｔ　Ｌｉｎｅ製、ＭＭＳ−Ａｕｔｏｍａｔｏｎ。神姫、天使型アー
ンヴァル、ＦＬ０１２。セットアップ完了、起動します」
　非常に機械的な、抑揚を感じさせない口調で宣言すると、彼女は目を開け、
立ち上がった。２度瞬きすると、きょろきょろと辺りを見回して彼の存在を目
視で確認する。その姿が、オーナーとして設定された顔写真のそれに一致する
事を認識すると、彼女は彼を真っ直ぐに見つめながら、最初の問いを発した。
「あなたが私のオーナーですね？」
「ああ」
　頷く男に向かい、彼女は機械的に次の問いを発した。
「オーナーのことは、何とお呼びすればよろしいでしょうか？」
　口調のと比較すると可愛らしいとさえ言える声による問いに、彼は考え込ん
でしまった。今まで、特に考えていなかったのだ。あれこれと考えた末に彼が
選んだのは、質問に対して質問を返すという道であった。
「あー、ちなみに、どんな呼び方かあるんだ？」
「以下のものが一般的です。オーナー、マスター、ご主人様。多少変わったと
ころでは、マイスター、ボス、主、マイロード、教官、先生、先輩、会長、隊
長、チーフ、リーダー、マネージャー、閣下、艦長、大佐、少尉、師匠、親方、
おおきみ、殿、カイザー、へたれ、あなた。なお、性別を認識した呼び方とし
ては旦那様、奥様、お兄様、お姉様、お父様、お母様、アニキ、アネキ・・・」
「あー、いや、そこまででいい。もう分かったから」
　怒濤の勢いで呼び方を並べられ、男は思わず遮った。
（あ、頭が痛い・・・）
　マスターはまだしも、ご主人様だの旦那様だの、一体どんな奴が呼ばせると
いうのか？
　そんな思いがよぎる。そんな思いと頭の痛みを、こめかみを押さえつつ頭を
横に振って払い落とす。
「あの・・・オーナー？」
「ん？」
「それで、私はどのようにお呼びすれば・・・」
「ああ、そうだな・・・」
　彼女の呼びかけで現実に意識を引き戻した彼は、しばし天井を見上げた。先
ほど聞かされた呼び方の内から比較的まっとうに思えそうな物をいくつか選び
出すと、何度か口の中で繰り返した。その中で最も語感が良さそうに感じた１つ
を彼女に告げた。
「『マスター』で頼む」
「はい。マスター、ですね。分かりました」
　彼女は頷くと、今度は多少の感情を含んだ声で新たな問いを発する。
「ところで、私の名前をつけていただけますか？」
「名前、か・・・」
「はい。個体識別のために名前をつけていただきたいのです。なお、一度つけ
ると変更は出来ないので、ご注意ください」
　彼の呟きを疑問と受け取った彼女は、そう返答する。が、その辺は既に承知
している上に、つける名前もすでに決めてあった男には不要な説明であった。
もっとも、それを口に出すのもどうかと思った彼は、反応を曖昧に頷くだけに
とどめた。
「ああ、うん。・・・そうだな、お前の名前は『ヴァル』だ」
「ヴァル、ですね。この名前でよろしいですか？」
「ああ」
「ありがとうございます。これからよろしくお願いします」
　名前を付けられた彼女−ヴァルは深々とおじぎをした。

　これが、この男の劇的でも感動的でもない、最初のセットアップであった。

　おわり