エンフィールドに奇妙な噂が２つ流れた。１つは２月の半ばから流れ始めた
もので、「フェニックス美術館窃盗事件の犯人とされているグローウォーム・
グレイフォードが、無罪を勝ち取るために自警団第一部隊隊長、リカルドの娘
であるトリーシャを篭絡した」というものであった。もっとも、この噂は当の
グローウォームがアレフから聞いた直後に否定した（「よくまぁそこまで人を
コケに出来るもんだ」と彼は語った）ことと、そこで一緒に聞いたシェリルが
トリーシャに詰問し真相を質したことで、それほど長くは保たなかった。
もう１つの噂は最初の噂と入れ代わるように流れた。それは「フェニックス
美術館窃盗事件の犯人はグローウォームではない」というものであった。詳細
はこうだ。自警団はこの１年近く、同事件についての捜査を重ねてきたが、ど
うも最初にあったいくつかの証拠−つまりグローウォームを犯人とした−が作
られものの可能性が高いらしい。だが、それを調べようとしたら、自警団最大
のスポンサーから捜査中止の圧力がかけられたのだ、と・・・。だが、これに
はおまけがついていた。圧力をかけられた自警団は、捜査を担当していたデア
リングを「しかたなく」外し、彼に隠密理に捜査するように命じた。そして、
彼は真相を突きとめたらしい。本当の犯人は・・・。
そこまで語ると、その噂を語った人は口を閉ざし、わざとらしく左右を見回
して口の前にひとさし指を立てるのだった。
そんな噂が流れる夜、５人の男が自警団員らしき細身の男を包囲していた。
「デアリング・デッキサイドだな？」
包囲した者達の代表らしき男が、そう問い質した。問われた方は、のんびり
と包囲状態を確認すると、質問とはまったく関係ない事を口にした。
「何か用かな？」
彼は、男の質問が疑問ではなく確認−それも確信を持った−に過ぎない事を
察知し、そしてそれが正しいことを知っていたからだ。
だが、自分の質問を無視された男は、彼−デアリング−の態度に恐怖とか怯
えとは無縁の不遜さを感じ取り、不快げに声を凄みをきかせた。
「聞かれた事に答えろ！」
「違うよ」
「何だと、とぼけるな！お前がデアリング・デッキサイドだということは分か
っているんだ！！」
「だったら聞くまでもないじゃないか」
呆れたようにため息をついて、デアリングは言い返す。包囲する他の４人の
男達から明らかな怒気がこぼれ出たが、統制が行き届いているのか、それで襲
いかかってくることはなかった。
代表の男も怒りをあらわににらみ付けてきたが、それでも自分の要求を突き
付けることは忘れなかった。
「噂の一件から手を引け。いらぬ好奇心は身を滅ぼすぞ」
男の口調といい、表情といい、平凡な一般市民であれば十分に身に染みるで
あろうありがたい忠告であったが、あいにくデアリング・デッキサイドにはそ
んな可愛さは存在しないのであった。
「うーん、そう言われても困るなぁ」
「ふざけるな！」
「いや、そう言われても、トリーシャが誰を好きになったとしても、私には介
入出来ないし、してもいないんだから、手を引けと言われてもねぇ」
わざとらしさがにじみ出ているとぼけ方に、男達は周囲をはばかることなく
大声を出してしまう。
「寝言を言うな！フェニックス美術館窃盗事件の方だ！！」
「ああ、なんだ、それならそう言えばいいのに」
デアリングは穏やかな微笑みさえ浮かべて、悠然と応じる。そんな彼に対し、
男は語気鋭く問い詰めた。
「どうなんだ！！」
「断る」
「な・・・！？」
あまりに簡潔な否定に、男達は一瞬だが絶句した。そんな彼らに対し、デア
リングは淡々と語る。
「これは私の仕事だからね。『はい、そうですか』って言って止めるわけには
いかないんですよ」
そこで何か思いついたらしく、彼は微かな、だが人の悪い笑みを浮かべて付
け加えた。
「それに、止めると給料がもらえなくなるじゃないか」
「貴様・・・」
男はうなり声をもらした。その瞳に憤怒の色をたたえ、今にも斬りかからん
ばかりであったが、一応「最後の警告」をよこしてくれた。
「もう一度だけ聞いてやる。フェニックス美術館窃盗事件の捜査を止めろ。嫌
だというなら、貴様を殺す」
「ようやく言ったね」
相手の脅迫を聞いて、デアリングは、むしろ微笑んだ。
「答えは・・・」
言葉と共に、両腕をゆっくりと上げる。そして、一気に振りおろしながら、
彼は「答え」を告げた。
「ＮＯ、だ」
語尾に、ゆったりとした袖に仕込んだ伸縮式のトンファーが伸ばされる金属
音が重なった。
「！・・・殺せ！！」
脅迫に失敗した男達は、実力で要求を押し通す道を選んだ。
一方のデアリングは相手が動くまで待ってはいなかった。自分の準備が済む
と同時に、左へ走って建物を背後に取った。それにあわせて、剣を抜いた男達
は彼を半包囲下に置いた。だが、デアリングにとって、それは前後から挟撃さ
れるより有利な状況であった。
もっとも、デアリングはこの程度で安心してはいなかった。彼は、自分の戦
闘能力で彼らを退けられる、などとは思うほど自分を過大評価してなかったの
で、出来ればこの半包囲下からも逃れたかったのだ。そのために、彼は再び行
動を起こす。
「〈シルフィード・フェザー〉」
詠唱無しで発動させた魔法と共に、彼の周りに風が起こる。風の精霊の助け
で、いつもより身軽になったデアリングは、正面から来た斬撃を横に飛んでか
わした。アルベルトであれば、斬撃を弾き返してカウンターを加えるところだ
が、デアリングにそこまでの腕前はない。本来が頭脳労働者であって、戦闘要
員としては、足手まといにならないというレベルでしかないのだ。
無論、彼は自分の技量をよく把握しているので、必然的に頭を使って状況を
少しでも有利にして、助けが来るまで持ちこたえる方法を選択した。少なくと
も、優勢な敵に正面から挑んで玉砕する、などという思考とは、無縁であった。
そんなわけで、最初の斬撃をかわしたデアリングは、そのかわした方向へ走
った。その方向にいた男は隙なく構えた剣で斬りかかる。横に飛ぶわけにはい
かないデアリングは、今度は身体をひねって斬撃をかわした。鼻先をかすめる
斬撃の巻き起こす小規模な突風の感触に冷や汗を流しながらも、彼は男の側を
駆けぬけた。
「ちっ！！」
男達の口からいまいましげな舌打ちの音が漏れた。せっかく挟撃していたの
に、まんまと逃れられたとあっては、無理もない反応だろう。
だが、男達が思っているほど、デアリングは危地を脱したとは思ってはいな
い。
（せいぜい、虎の口から頭を抜き出したってところかな・・・）
隙なくトンファーを構えたまま、デアリングはそう思った。実際、５対１と
いう状況は有利には程遠い。それは男達も承知しており、隙あらば包囲しよう
と左右へ散りながら間合いを詰めて来る。一方のデアリングは包囲しようとす
る動きに合わせて後ろに下がり、間合いを広げる。
こんないたちごっこに、男達の方が我慢できなくなった。先程デアリングと
交渉した１人だけを残して、動きを止める。そして、その１人だけが一気に間
合いを詰めて斬りかかってきた。
「はあぁぁっ！！」
気合と共に振り降ろされた剣を、デアリングはトンファーを頭上で交差させ
て防いだ。問題は、そこからだった。斬りかかった男は、受けとめられたを幸
いとばかりに押し込んできたのだ。
「くっ・・・」
デアリングの口からうめき声が漏れる。腕力のなさでは自警団で１、２を争
う男だ。こういう力技でこられると、対抗しようがない。たちまち力負けして、
膝をついてしまう。こうなれば、逃げまわる事は出来ない。一気に決着をつけ
んと他の４人も動こうとする。
その時、異変が起こった。
男達のうち左手に展開していた２人が、突然倒れたのだ。
「なっ・・・！？」
驚いた男達が振り返ると、そこには完全武装した、紫色の髪を持つ、穏やか
な印象を受ける若者がいた。手にはサーベルが握られており、２人を倒したの
は彼であると告げていた。
「ロビン、遅いじゃないか。危うく頭を割られるところだったよ」
「悪い悪い、見張っていたのはいいんだが、出るタイミングがつかめなかった
んだ」
この状況にそぐわないのんびりした会話で、男達はさとった。自分達はデア
リング・デッキサイドを待ち伏せしているつもりだったが、実は反対に待ち伏
せされていたのだ、と・・・。
それは、無意味で虚しい理解だった。理解したところで、現実には何の影響
力も行使しえないのだから。デアリングとロビンの２人を倒す以外、彼らに活
路はなかった。
「何をしている！その男を殺せ！！」
デアリングとつば競りあいを演じる男が叫ぶ。その声で、残る２人が我に返
ってロビンに向きなおったが、全て手遅れであった。
「はっ！」
風のように１人の男の脇をロビンがすり抜けると、その男はしばし呆然とし
た表情を浮かべたかと思うと、剣を取り落し、その場に崩れ落ちた。
「くそ！！」
もう一方の男がやぶれかぶれになって斬りかかる。勇敢だが無謀なその斬撃
を、ロビンは低い姿勢のまま受け流した。その結果、姿勢を崩した相手の胴を、
彼はサーベルの一閃させて薙ぎ払った。
「う・・・」
男の口からうめき声が漏れたかと思うと、彼は剣を落として、うずくまるよ
うに倒れた。
あっという間に４人を倒したロビンは、軽く息をついた。
「デアリング、片付いたよ。最後の１人はお前がやれよ」
「おいおい、君がやってくれてもいいだろう？」
「それくらい自分でやれよ。出来るだろ？手を抜くなよ」
「やれやれ」
およそ力負けして押されているとは思えない、呑気な会話をかわす。この呑
気さに怒りを触発された最後の１人は、いったん離れると間を置かずに斬りか
かってきた。だが、この時点で、勝敗は決していたのだ。
「〈グラビティ・バインド〉」
ロビンの参戦で注意が外れてからずっと詠唱していた呪文を発動させる。直
後、斬りかかってきた男は手足や首に見えざる鎖が絡みつく。その感触を覚え
る間もなく、男はその鎖に後ろへ引っ張られた。
「うおっ！？」
どういう手段でそうなったのか分からぬままに、タイミングよく引っ張られ
た男はバランスを崩す。そして、踏み止まることもかなわぬままにひっくり返
った。
「くっ・・・この！」
男はなんとか起き上がろうとするが、無駄な努力だった。彼の身体は、鎖で
地面に縛り付けられたかのようにビクともしない。
「終わりだよ。それは人の力でほどける物じゃない」
「何なんだ、これは！！」
デアリングの落ち着き払った宣告に、男はかみついた。いや、かみつく以外
に何も出来なかった。
「〈グラビティ・チェイン〉の応用呪文だよ。しばらくすれば元に戻るよ」
「まったく、お前の魔法って本当に多彩だよな」
「乱読の賜物ってやつさ。それより、さっさと縛り上げよう」
感心半分、呆れ半分のロビンに、デアリングはすまして応じると、１つ重要
な事を思い出した。
「ロビン、君がやった連中は？」
「ああ、大丈夫だろ。全員、みね打ちだから、命に別状はないさ。骨の１、２
本は折れたかもしれないけどね」
「そうか・・・」
「それにしても・・・お前の言った通りになったな、デアリング」
ロビンの言葉に、デアリングは微かに笑ってみせた。それは、ほろ苦い笑い
だった。
時間は、第２の噂、つまりフェニックス美術館窃盗事件の真相にまつわる噂
が流れる前までさかのぼる・・・。
「・・・信じられない・・・」
「ロビン、これは紛れもない事実なんだ」
穏やかな声でデアリングが力説する。
場所は第三部隊カール・ノイマンの自宅。そこでデアリングは、フェニック
ス美術館窃盗事件に関する「真相」を披露していた。同席のノイマン、リカル
ド、ヒサメ、シグレが沈黙を保つ中、ロビンが疑問を示した。
「だが・・・本当にそんな・・・試験管から人間を作るなんてことが出来るの
か！？」
彼の叫びはもっともだ。過去、何人もの魔術師や研究者が取り組んできたテ
ーマ−人の手で生命のないものに生命を吹き込む−は成功したことがないテー
マのはずだった。それが成功していて、しかも今回の事件に関係がある、など
と言われてにわかに信じられるものではない。
だが、そこで止まっては「真相」の説明が出来なくなる。デアリングは静か
に応じる。
「出来た・・・としか言いようがないね。少なくとも、出来るという確信がな
ければ、こんな真似はしないだろうね」
「いや、それは、そうだが・・・」
「デアリング君」
反論できず口ごもったロビンに代わって、リカルドが口を開いた。
「その情報に誤りはないのだろうね？」
「ありません。ハメット・ヴァロリー氏に、自分の執務室にダミーの書類を置
くという趣味があるので無い限りは」
デアリングは穏やかに、そして情報元を示唆する言葉を入れて回答した。そ
の示唆が意味すること−ハメットの執務室から盗んできたということ−を悟っ
たロビンが、さすがに冷や汗を一筋流しつつ呟く。
「それにしても、信じられない・・・フェニックス美術館窃盗事件の黒幕がハ
メット氏だとは・・・」
それが、デアリングの告げた「真相」であった。
無論、この「真相」は彼がいくつかの証拠から推理したものに過ぎない。彼
の推理は、以下の通りである。
・ハメットは何故、「グローウォームが犯人ではない」という捜査方針に圧力
を加えるのか？
→その方針だと、自分が不利益を被るから。
・不利益とは何か？
→「グローウォームが犯人ではない」となった場合に、グローウォームが受
ける利益が、彼の不利益である。
・では、グローウォームが無罪となった場合、彼が受ける利益とは？
→第一に、身柄の自由が保障される。第二に、保釈金が返還される。保釈金
は、アリサが土地を担保にハメットから借りたものなので、手元には残ら
ないが、少なくとも彼の不利益ではない。
・彼が自由になり、保釈金が返還されることによる、ハメットの不利益とは？
→全く存在しない。貸付金が返済されて困る人間などいない。
・では、なぜ「不利益」になるのか？
→貸付金が返済されて「不利益」になるということは、ハメットは返済され
る事を望んでいない、ということである。
・何故、返済されることを望まないのか？
→ハメットの望みは「貸付金の返済」ではなく、「担保の取り立て」にある
から。
ここまで来れば、デアリングにとり、ハメットの行動は一本の糸につながる。
つまり、ハメットは最初から「担保としての土地取り立て」を前提にした貸付
を行い、アリサからジョートショップの土地を奪い取ろうと画策していた、と
いう事だ。
さらに思考を進めれば、ハメットは借金の原因になったフェニックス美術館
窃盗事件の真相を知っていると判断出来る。そうでなければ貸した金が無駄に
なる可能性もあるのだ。１０万Ｇという大金を、そんな博打じみた事に使えは
しないだろう。知った上で真相を隠し、自己の利益を求めようとしたのだ。あ
るいは、彼自身が犯行を行い、グローウォームに罪をなすりつけた、そう考え
るべきかもしれない。１０万Ｇという金は、一朝一夕に用意できるというシロ
モノではないのだから・・・。
そして、これだけの事をしてまでジョートショップの土地を欲しがる理由が、
試験管から生まれた命−人工生命体の量産拠点をそこに置きたい、というもの
であるわけだ。
常軌を逸している事は言うまでもない。一事業のために、無実の人間に犯罪
者の汚名を着せ、住まいを奪い取る真似を、まともな思考と良心を持ち合わせ
た人間が出来るわけがない。だが、その一方で、人間という生き物は、それが
正しいと信じて疑わない場合、いくらでも悪辣で非道な真似の出来るものだと
いう事を、デアリングは過去の経験から知っていた。おそらくハメットも、自
分がしている事を悪行だとは全く思っていないであろう。
（全く、人間ってのは「正義」を掲げている時ほど、醜悪になる・・・）
デアリングはそんな思いに捕らわれる。もっとも・・・
（まぁ、事件解決のために不法侵入をやらかす私も、人の事を言えた立場では
ないだろうけどね・・・）
とも、同時に思うのだ。
「デアリング君？」
やや不審げなリカルドの声で、彼は自分がとりとめのない思考にはまってい
る事に気付いた。
「はい？」
「何か、気にかかることでもあるのかね？」
「いえ、別に・・・ちょっと考え事をしていただけです」
「そうか・・・」
重々しくリカルドが頷くと、代わってノイマンが口を開いた。
「それで、これから我々は何をするのだ？」
「特にするべき事はありません。少なくとも自警団には・・・」
「は・・・？」
その一言を受けたロビンは、思わず目を点にした。
「何もしないって、お前・・・」
「私が言ったのは全て状況証拠なんだ。これだけで、ハメットに対して行動を
起こしたところで潰されるのがオチだよ」
「それでは、どうするのだ？」
ノイマンが問いかける。自分のためではなく、この場にいる他の人間のため
に、だ。
「ここ最近、奇妙な噂が流れているのはご存知だと思います。それを逆手に取
りましょう」
デアリングは、ごく穏やかに、極悪な事を提案した。
「例の噂とは別に、事件の真相−私が推理したものですが−をリークします。
後は放っておいても立派な噂になるでしょう。ついでに、例の噂もハメット
のせいにしておきましょう」
それを聞いたリカルドが、少々眉を寄せながら呟いた。
「少しやりすぎな気もするが・・・」
「そうかもしれませんが、自業自得だと思いますよ」
デアリングは軽く肩をすくめてみせるだけだった。と、そこで１つ思い出し
たらしく、ロビンを振り返って付け加えた。
「ああ、そうだ。ロビン、噂が流れ出すと、私を狙って動く連中が出てくると
思うから、こっそりと護衛してくれないか？」
「お前を・・・か？」
「そう」
にっこり微笑んで見せると、デアリングは頷いた。
「考えてもみなよ。私が事件の真相を調べている、という噂が流れて、それで
も表向きは私は何もやっていない事になっているから、止めさせろと圧力を
かけたところで効果がない、となったら私を止めるには、私を物理力でどう
にかするしかない、と思うんじゃないかな？」
そこまで説明を受けると、ロビンは思わず立ちあがりながら叫んだ。
「お前、まさか・・・！？」
つまりデアリングは、噂そのものを利用して、ハメットを引きずり出そうと
いうのだ。自分自身を囮にする事を提案した男は、笑顔のまま呟いた。
「さて、どう出てくるかな、相手は・・・」
それは、見かけとは正反対の凄みを帯びた呟きだった・・・
「これで、一歩前進・・・か？」
「さあね。ただ、私の推理が正しいことだけははっきりしたね」
ロビンの問いに、デアリングは軽く肩をすくめつつ応じた。
そう、もし、彼の流した噂が真相と異なるなら、彼がこのように狙われるは
ずもない。狙うということは、噂が真実だと認めたようなものだ。
「それより、拘束の方、よろしく。私は人を呼んでくるから」
「ああ、まかせろ」
ロビンが頷くと、デアリングは足早に自警団事務所へと向かった。ほどなく
してロビンの姿が見えなくなると、デアリングは虚空に向かって呟いた。
「ヒサメ、いるね」
「はい」
「首尾は？」
「上手くいきました。シグレが尾行してます」
「そうか・・・」
デアリングは軽く頷く。続けて、小さく呟いた。
「見届け役がいてよかったよ・・・」
彼は、ただ単に相手が動かすために噂を流したわけではない。動き、伸びて
きた手を逆にたどって本体にたどり着くために、流したのだ。それは、完全に
成功した。今まで、自警団に圧力をかける程度の事しかしてこなかったハメッ
トを、ここまで動かす事に成功したのだから。後は、この件に関する確固たる
証拠をつかんでしまえば、それであとは芋蔓式に、全てを明らかに出来る。だ
が、その前にやっておくべき事があった。
「ヒサメ」
「はい？」
「グローウォームの所へ行って、彼に張り付け。この失敗を知ったら、ハメッ
トは、彼に対して動きを起こすだろうから・・・」
「それは・・・つまり彼を抹殺しにかかる、と？」
「その通り」
「そんな、まさか・・・いくら何でもそこまで・・・」
信じられない、という表情でヒサメは絶句した。そんな彼女に対し、デアリ
ングは明るさというものが全くない笑みを浮かべて見せた。
「正しいと思えば、どんなあくどいことでもやってのけるものだよ、人間とい
う生き物はね」
「デアリングさん・・・？」
日頃のやんわりとした雰囲気からは想像も出来ない冷たさは、臆病には程遠
いはずの彼女の背中を確実に冷やした。それに伴う表情の変化に気付いたのか、
デアリングは微すぎる、だが温かみを持たせた笑みを浮かべると、口調を改め
た。
「まぁ、人間に関するあれこれはさておいて、だ。とにかく彼らに張り付いて
くれ。とりあえずはシグレが戻ってくるまででいいから」
そのシグレは、と言えば尾行の結果、ショート邸にたどり着いていた。見届
け役がこの屋敷に入るのを見届けたからだ。
ちなみに、ハメットはここで寝起きし、１階の執務室で仕事をしている。
（大当たり、か・・・）
デアリングの予測が的中したことに、シグレは感嘆混じりにそう思った。そ
の一方で、手馴れた動作で塀を乗り越え、敷地への侵入を果たす。そして、音
も立てずに移動して、屋敷の壁に張り付いた。すると、見届け役とハメットの
会話が漏れ聞こえてきた。
「待ち伏せされていた・・・」
「はい」
神妙に頷かれ、ハメットはうなり声を１つ上げた。
（おのれ・・・小ざかしい真似を・・・）
彼にとって、デアリング・デッキサイドは反逆者以外の何者でもなかった。
彼の感覚で行けば、ショート財団からの出資を受けている自警団は「飼い犬」
に過ぎず、自分の意向に何の疑問も持たずに従うべき存在なのだ。そのくせに、
デアリングという男はその飼い主に吠えかかり、あまつさえ噛みつこうとさえ
している。断じて許せることではなかった。
だが、その不遜な男に対して彼が行った「懲罰行動」は完全に失敗した。全
て、デアリングに予測されていたのだ。
（このまま放置してはおけません・・・）
手をこまねいていれば、自分の身が危うくなってしまう。だが、どうすれば
いいのか？
デアリングをどうにかしておびき出す？他の自警団員を増援で使えるように
なるから無意味だ。
再び襲う？既に失敗している。同じ手にかかるほど愚かではないだろう。事
件解決まで、相手には護衛がついているものと考えた方がいい。
ではどうする？
（・・・要はあの男が何を言おうとも、グローウォームが処断されてしまえば
全ては丸く収まるのですが・・・）
そこまで考えたハメットは、何かに気付いたらしく低く笑い出した。
（ああ、グローウォームに言い逃れのきかない罪を犯させればいいのではない
ですか。どうして今まで思いつかなかったんでしょうねぇ・・・）
笑いを納めると、ハメットは今までの態度が嘘のような上機嫌さで部下を呼
び出すと、楽しげに命令を下した。
「連中に協力しているシェフィールド家のお嬢様をここに力づくで連れてきな
さい」
そしてさらに、誘拐後、こことは別の適当な場所に人を配置しておくこと。
シーラがそこに連れ去られたという偽りの手紙をグローウォームに渡すこと。
自警団をそこに呼び寄せておくこと等を命令した。
「ふん、居もしない仲間を助けに行って、自警団に捕まるがいい」
ハメットは、シーラを誘拐し、その救出に来るグローウォームに偽の情報を
渡すことで判断を誤らせ、誘拐とは関係ない人間を攻撃させようとしていたの
だ（さらに自警団を付近に呼び寄せることで、即座に逮捕できるように手配し
ていた）。
一方、この計画を聞かされたデアリングは、水面下での阻止のために行動を
起こした。だが、彼の行動は予想外の事態によって完全な成功を収めることは
出来なかった。もっとも、ハメットの計画の方は完全な失敗に終わるのだが・
・・。
翌日、エンフィールド西の山。この日、パティ、マリア、リサ、クリスの４
人は香草、薬草の採取のためにこの山に来ていた。無論、香草の採取と薬草の
採取は別々の依頼で来ていた。だが、どうせ取るのは同じ山なのだから、まと
めてやってしまった方が効率が良い、という理由で香草の見分けがつくパティ、
薬草の見分けがつくクリス、それに護衛のリサとマリアという役割分担でチー
ムを組んでいた。
「これでこっちは終わり、っと・・・クリスの方はどう？」
「僕の方は、もう一ヶ所回らないと・・・」
依頼分の採取を終えたパティの問いに、クリスはそう答えた。その答えに、
リサは陽の高さを確認しながら呟いた。
「それなら、早く行った方がいいね。でないと、山を降りるより早く夜が来る」
その直後、そばの茂みががさがさと揺れた。
「誰だい！？」
「出てこないとマリアの魔法でぇ・・・」
リサの誰何とマリアの物騒な宣言に、茂みを揺らした人物はさすがに焦って
声を上げた。
「ちょ、ちょっと待った！私だよ」
「なんだ、デアリングか。こんな所で何してるのよ？」
茂みから顔を出したデアリングに対し、パティが安堵のせいで気の抜けた声
を出した。
「ちょっとこの山の見まわりをね。最近、怪しい連中がうろついているらしい
から」
服についた葉っぱをはたきながら、デアリングはそう答えた。
「ま、リサもいることだし心配はないと思うけど、日が暮れない内に戻った方
がいいと思うよ」
「マリアもいるんだから！！」
「ああ・・・そうだったね」
自分を頭数に入れてもらえなかったマリアが頬を膨らませて抗議すると、デ
アリングは苦笑を浮かべて、そう応じた。
「それじゃ、私はまだ見まわりがあるから」
続けてそう言うと、軽く手を上げて悠然と立ち去って行った。その後姿が消
えるとリサはポツリと呟いた。
「デアリングの奴・・・何でこんな所に来たんだ？」
「え？自分で言っていたじゃない。『見まわりだ』って・・・」
「ボウヤの見張り役やっているはずの奴が、ボウヤのいないここまで、かい？」
「あ・・・」
リサに言われてパティもおかしい事に気付いて考え込んでしまった。リサ達
が知る限り、デアリングの今の仕事は「グローウォームの監視」である。なの
に当のグローウォームがいない（この日、グローウォームは誕生の森に出向い
ていた）のに、何故、ここにいるのか？
考えられるのはわざわざ何か言いに来た、あるいは何か窃盗事件に関する用
がある、のどちらかしかない。
「何にせよ、早く依頼を終わらせて帰るとするか・・・」
リサはそう結論づけた。
一方、同じ山のある小屋。
そこには、３０人ほどの木こりや猟師に見える男達が集まっていた。だが、
彼らが交わしている会話は、およそ木こりや猟師のものではなかった。
「目的であるシェフィールド家のお嬢様の部屋はここだ。第１班がこの部屋を
押さえて、目標を連れ去る。第２班は屋敷の１階を制圧して家人を全員縛り
上げる。第３班は家人の外部への逃走を阻止する。以上だ、何か質問は？」
そう、ハメットの計画を請け負ってシーラを誘拐するための犯罪者グループ
が、彼らの正体であった。
彼らは最後の確認を終えると、行動を開始した。装備を手に、ゾロゾロと外
に出ると、１人の男が彼らの前にいた。
「こんにちは・・・いや、もうこんばんわと言うべきかな？」
この声の主を見た瞬間、彼らの顔から血の気が引いた。その声の主は、彼ら
の雇い主の敵、デアリング・デッキサイドであったからだ。
そのデアリングは、彼らの動揺など全く気付かぬかに見える態度で言葉を継
いだ。
「あなた方に少しお尋ねしたい事がありましてね・・・ハメット・ヴァロリー
との関係とか、シーラ・シェフィールドの事とかね・・・」
言うと同時に一歩踏み出した。その時、彼の足が地面に着くより早く、足も
との枯葉が何かに吹き散らされた。だが、デアリングのペースに完全に飲まれ
てしまった彼らに、その事の意味を理解する余裕も、そんな事が起こった事に
気付く余裕もなかった。
それでも、相手は１人に対し自分達は３０名いる事。相手が今だ武器の１つ
も手にしていない事に気付くことは出来た。彼らのうち何人かが、剣を抜くと
同時に襲いかかってきた。
「うぉぉぉっ！！」
雄たけびと共に突っ込んでくる男達の剣戟を、デアリングは後ろへ飛んでか
わした。同時に、今まで効果が持続するギリギリの魔力しか投入しないでいた
魔法に魔力を一気に注ぎ込み、その力を解放した。すると、デアリングの足か
ら風が吹き出し、地面から５センチほどの高さで靴底を支えた。そして、後ろ
へ飛んだ勢いのまま、彼の体を後ろへと滑らせた。
「なっ！？」
人間の体が足も使わず、しかも後方へ滑るという光景に、男達は絶句した。
「一体どんな魔法を使った！？」
その叫びに、デアリングは微かに笑っただけで答えなかった。
〈ウィング・スレッド〉。これがデアリングの使った魔法の正体である。術
者の足から風を吹き出し、その力で術者の体を浮かせ、高速移動を行う魔法で
ある。もっとも、ただ単に高速で移動するなら飛行系の魔法の方が使い勝手が
良いので、あまり使う人がいない魔法でもある。
デアリングは、そのマイナーな魔法を戦闘時の高速移動の為に習得し、扱い
に熟達していたのだ。
「さてと・・・行きますか」
呟くと同時に、右腕を振って袖に仕込んだトンファーを手にする。そして、
デアリングは彼らに対して突撃した。そのスピードは極めて早い。
「く・・・！」
デアリングの正面に立つ男は、驚きに耐えつつ迎撃の為に行動を起こした。
とにかく突っ込んで来るのだから、剣を突き出せば避けようとするはず、と考
えて、実行に移した。
その結果、確かにデアリングはその剣を避けた。だが、その避け方は男達の
希望と全く異なるものであった。彼は、男達と相対した姿勢のまま、その移動
速度も全く落とさぬまま、移動方向だけを直角に左へ曲げてのけたのだ。
「な！？」
予想外の現実に、彼らは絶句した。いわゆる横滑りという動きだが、あまり
に異常な速さであった。彼らが驚き反応できないうちに、デアリングは目の前
の１人にトンファーで殴りかかった。
「ぐっ・・・」
横薙ぎに殴りつけられた男は一歩よろめいた。だが、それだけで済んだ。か
なり強烈な一撃であったにも関わらず、ダメージは大したものではなかったの
だ。どういうことかと思い、男がデアリングの姿を探すと、その理由が分かっ
た。
デアリングが殴った際の反動で離れたところへ流されていたのだ。わずか２
センチとはいえ宙に浮いているデアリングは、ちょっとした反動でも流されて
しまう、というわけだ。
その事を察知すると、彼らは動揺が一気に収まり、逆に活気付いた。
「打撃は大した事がないぞ！囲んで押しきっちまえ！！」
だが、彼らは完膚なきまでに失念していた。その程度の事は、当然デアリン
グも心得ているであろうという事に。そして、心得ていれば、対策も立ててい
るであろう事に。
「〈ライトニング・ジャベリン〉」
殴った直後から〈ウィンド・スレッド〉を制御しつつ別の魔法の詠唱をして
のけたデアリングは、直線的に並ぶ形になった男達にエンフィールドでは珍し
い雷系の魔法を見舞った。
パァアンッ！！
すぐ側に雷が落ちたかのような音と共に、男達を青白い光線が襲った。直後、
１０名近い男達が悲鳴１つ上げる暇も無く気絶した。
デアリングは、魔法を駆使することで、たった１人で３０人を翻弄しつつあ
った。そして、このまま雷系の魔法で全員を気絶させるつもりだった。だが、
その目算は、予想外の闖入者によって完全に外れる事になってしまう。
「ちょっと！あんたたち何してんのよ！こんな大勢でよってたかって！！」
「パティ！？」
怒りの一喝を聞いた途端、デアリングは体を硬直させて、発言者の名前を叫
んでいた。
（どうしてここに？）
デアリングは頭の中で問いかけたが、答えは簡単であった。パティ達、薬草
取りの面々は仕事を終えジョートショップへ急いで帰るべく、リサの誘導の元、
近道になるけもの道を急いでいたのだ。そして、そのけもの道はたまたま、こ
の現場の側を通っていた。当然、デアリング達の戦う物音はパティ達にも聞こ
え、彼女達の注意を引き・・・パティの乱入へといたるわけである。
本来であれば、このような事態を避けるためにシグレとヒサメの２人を周辺
に配置していたのだが、やはり２人では見落とし（というか見張りきれない部
分）があったのだ。
そんな諸々の事情を考えている間に、男達はパティ達への対応を決めていた。
「お前ら・・・ジョートショップの手伝いをしている連中だな？」
「それが何よ！？」
たった１人に３０人がかりで攻撃するという行為に激昂しているパティは、
その怒りを声にして相手にぶつける。だが、数と実力、双方での優位を確信し
ている男達は小馬鹿にした薄笑いを浮かべるだけでまともに反応することさえ
しなかった。
その中でリーダーらしい男が、ニヤリと笑った。邪魔をしてくれたデアリン
グの目の前で、目的を達成するチャンスが転がり込んできた事に気付いたのだ。
「よし、やるぞ。こいつらをかっさらえ！！」
「おう！！」
「ちっ！」
男達の反応に、珍しくデアリングは舌打ちをすると、自分とパティ達の間に
立ちはだかる男達の壁を素早くすり抜け、アレンジに必要な呪文だけを詠唱し
て魔法を発動させた。
「〈ルーン・バレット〉！！」
声と同時に４発の〈ルーン・バレット〉が発射され、男達めがけて飛んで行
った。１発あたり３つの火の玉で構成されるそれらは、空中で火の玉１つ１つ
に散開して男達に襲いかかった。
「うおっ！？」
背後からの魔法攻撃に、パティ達に向かっていた男達は思わず足を止めた。
すかさず、デアリングの声が飛んだ。
「パティ！私は自分でなんとか切り抜けるから、早くここから逃げてくれ！！」
だが、この退避勧告を、パティは善意から一蹴した。
「なに言ってんのよ！こんな大勢、あんた１人でどうかする気！？無茶言わな
いでよね！！」
「パティの言う通りだね。ここは私達に任せな」
（一応、勝算があるから１人で始めたんだけどなぁ）
パティに同調したリサの参戦表明に、デアリングは内心でつぶやいた。だが、
目の前に敵がこの状況で、長々と説得する余裕はないのも確かである。デアリ
ングはため息をつくと、覚悟を決めた。
「分かった。でも、無理して怪我をしないようにね。怪我されると、私がグロ
ーウォームに殺される」
「任せて！！」
デアリングの真剣なセリフに、パティは元気良く応じると、木製のハンマー
を手に戦闘を開始した。
「行くよ」
パティに続いてリサも参戦する。これに対し、男達はパティに狙いを定めた。
歴戦の傭兵であるリサを相手取るより、宿屋の看板娘にすぎないパティの方が
やりやすい、と判断したからだった。判断そのものは正しかった。確かにパテ
ィはリサより戦闘能力では劣っていた。だが、リサより低い戦闘能力であると
しても、男達の手に負えるかどうかは、また別の問題であったのだ。
「手加減なんてしないからね！！」
事実、宣言と共に振るわれたハンマーのスピードは、男達の予想をはるかに
上回っていた。あっという間に２人が殴り飛ばされた。
「は、速い！！」
「後ろだ！後ろの連中を狙え！！」
慌てて方針を変え、マリアとクリスめがけて突進する。そうなると数の差が
物を言って、たった２人では阻止できない。
「させないよ」
それを見たデアリングは落ち着いて言い放ち、〈ウィンド・スレッド〉によ
る移動速度を最高速にして彼らに突っ込んだ。
「うぉっ！？」
デアリングのショルダータックルを食らった男は、ものの見事に「轢かれて」
しまった。デアリングがあまりに速かったので、後ろに飛ばされるより早く、
地面に叩きつけられてしまったのだ。続けて、デアリングは側にいた男の首に
腕を引っ掛けて、これも地面に叩きつけた。
〈ウィンド・スレッド〉で高速で移動しつつ体当たりを加える。確かに、こ
の方法であれば相手に有効打を与えられる（何しろ、「反動」が存在しない）。
だが、それでも止めることが出来たのはたった２人でしかない。まだ５人以
上の男達がマリアとクリス目掛けて突進していたのだ。疑う余地のないピンチ
である。しかし、世の中にはこんな時こそいきいきする人もいるのだ。そして、
そんな人はここにもいた。そんな人に属する彼女は、元気良く右手を上げて高
らかに宣言した。
「マリアにまかせて！！」
自信たっぷりの態度で男達に指先を向けると強いイメージと共に魔法を発動
させた。
「〈ライトニング・ジャベリン〉！！」
声と同時に、マリアの指先から雷光が放たれた。デアリングが放った雷光に
比べると明らかに小規模であったが、それでも、突進する男達を止めるには十
分な威力の雷光であった。面白いようにぱたぱたと倒れ、気絶者の山を築いて
いく。
「やったぁ☆やっぱりマリアってば天才！！」
この光景にマリアは無邪気に喜んでいた。もっとも、なぜ上手くいったのか、
については全く考えてはいなかった。
ちなみに、上手くいった理由は「デアリングの使い方をマリアの認識出来る
範囲で真似して使ったから」である。今回、デアリングは相手に〈ライトニン
グ・ジャベリン〉の使用を気取られないように事前の呪文詠唱を口の中で行っ
ていた。そのため、マリアには事前の呪文詠唱は聞こえず、ただ「〈ライトニ
ング・ジャベリン〉！」と叫んだだけで魔法が発動出来たように見えたのだ。
おかげで、マリアは小難しい（と彼女が思っている）呪文詠唱を一切せずに、
自分のイメージだけに集中することで魔力を制御し、発動させることが出来た
のである。
もし、デアリングの呪文詠唱が聞こえていたら、その呪文詠唱に気を取られ
魔力の制御が不十分になり、発動させるどころか、（いつものように）自爆し
たかもしれない。その意味では、全くの幸運と言えるだろう。
もっとも、その幸運はクリスまで助けてはくれなかった。マリアの〈ライト
ニング・ジャベリン〉は、かなり強引に発動させている。その代償として威力
が大きく落ちていたのだ。その結果、運良くマリアの魔法から逃れた何人かが、
クリスに接近することに成功してしまったのだ。
「わあぁぁっ！！こ、こっちに来ないで！！」
殺意さえ見える男達の接近に、クリスは悲鳴を上げた。同時に、クリス本人
の背丈より長い杖を振り回す。
パコッ！
でたらめに振り回されていた杖の先が、偶然にも突っ込んできた男のあごに
ヒットした。景気のいい音と共にあごを殴られた男は、その一撃で見事にＫＯ
されてしまった。
「このガキ、ふざけやがって！！」
「ふざけてるのはそっちでしょ！！」
まさかの反撃を受けて逆上した男達の罵声に、パティの怒りの言葉が応じる。
驚いて振りかえった男の顔面に、すぐ側まで来ていたパティは渾身の力を込め
てハンマーを叩きこんだ。
「ぶおぉっ！！」
殴られた男は意識を無くした頭で地面を掘り返す羽目になった。そんな男に
は目もくれず、パティはさらにクリスに群がる男達を蹴散らしにかかる。
「あんたたち！クリスに！何すんのよ！！」
短く区切った一言ごとに一撃を繰り出し、男達をどつき倒す。その縦横無尽
な動きに男達は翻弄され、一方的に蹴散らされてしまった。
「クリス、大丈夫だった？」
「あ、はい・・・」
あっという間に終わってしまい、いささか呆然となりながらクリスは頷いた。
クリスの周りに限らず、戦闘は終結しつつあった。既に男達は３名ほどを残
して陸揚げされた魚よろしく転がっていた。その残る３名もリサのナイフとデ
アリングの魔法の前に敗れ去ろうとしていた。
勝った、とパティ達が思ったその時、それは起こった。
「があぁぁぁぁっ！！」
「えっ！？」
パティの足元に転がっていた１人が、雄たけびを上げたかと思うと突然立ち
あがったのだ。
「こんのぉ！！」
わずか５名に翻弄され、叩きのめされた屈辱を怒りに変え、男は樫の杖で背
後からパティを殴りつけようとした。リサとデアリングは位置が悪く、助けよ
うとしても間に合わない。マリアは先ほど魔法を放ったばかりで、これまた間
に合わない。
（やられる！）
当のパティもそう思った時、クリスが動いた。
「パティさん！！」
「えっ？」
グイッ！
動けないパティを呼ぶと同時に、クリスはその腕をしっかりつかんで自分の
方に引き寄せた。自分より１０センチ高いパティの体を受け止めきれず、しり
もちをついてしまうが、彼の目的−男の打撃を回避する−は果たせた。だが、
それは男の怒りの炎にさらなる油を注ぐことにもなった。
「このガキ！なめたマネしやがって！！」
もはや怒り狂っている男はパティとクリスをもろともに殴りつけようとした。
しかし、それよりもクリスの方が早く行動していた。
「あ、〈アイシクル・スピア〉！！」
震える声ながらも咄嗟に放った魔法は正確に発動し、氷の塊は男のこめかみ
付近を強打した。
「か・・・」
さすがにこの一撃には耐えきれず、男は白目をむいて、ゆっくりと地面に沈
んでいった。
「や、やっつけたの・・・？」
「は、はい・・・あの、パティさん、大丈夫ですか？」
「うん・・・あたしは大丈夫・・・ありがとね、クリス」
目の前のクリスに、パティは穏やかな、温かい笑顔を向けた。そんな笑顔に、
クリスは少しどきどきしはじめた事を自覚した。
「そ、そんな事・・・」
「いや、咄嗟にあれだけのことをやれたのなら、立派なものだと思うよ」
デアリングの率直な賞賛に続き、リサが笑いながら後を受けた。
「それに、そんな大胆な真似が出来るようになったんだから、大したもんじゃ
ないかな？」
「え？」
「どういう事？」
意味が分からぬパティがそう問うと、リサは人の悪い表情を浮かべて答えた。
「ま、大胆なのはパティの方かな？いくら相手がクリスとは言え、そんな風に
するなんてね」
その言葉で、２人はようやく自分の状態に気がついた。クリスは先ほど引き
寄せた腕をつかんだまま、半ばパティを抱きとめるような感じになっていた。
パティはパティで、見た目だけはクリスを押し倒しているように見えるありさ
まだったのだ。
これに慌てたのは、特にクリスだ。
「わぁっ！！ご、ごめんなさい、パティさん！！」
ずささささっ！！
悲鳴を上げるやいなや、クリスは慌てて手を離し、その姿勢のまま１メート
ルばかり後ずさった（器用にも）。その行動にパティは呆れ半分、怒り半分の
声を上げた。
「ちょっとぉ、そんなに逃げないでよ！大体、謝ることはないじゃない！！」
「で、でも・・・」
「でも、じゃないわよ！人を助けたんだから、もっと堂々としてていいの！で
ないと、あたしがお礼言えないじゃない」
一通り文句を言ったものの、クリスの性格では無理もない、と思い至って彼
女は軽く息をついた。ま、しょうがないか、と口の中で呟くと、改めてお礼を
言った。
「クリス・・・ありがとう。おかげで助かったわ」
「いえ、その・・・どうも・・・」
しどろもどろな、奇妙な返答。それが、この戦いの終幕となった。
夜、さくら亭。
「さっ、遠慮しないでジャンジャン食べて！あたしを助けてくれたお礼だから！」
「ど、どうも・・・」
テーブルに並べられた料理を前に、クリスは恐縮の体で小さくなっていた。
その理由は・・・
「何とも・・・ずいぶん豪勢な上に、大盤振る舞いだね、パティ」
というデアリングの一言に要約される。その量の多さは、リサが本気で心配
し、「無理して腹、壊すんじゃないよ」とクリスに忠告したほどだ。
そんな料理が揃ったところで、グローウォームとアレフが連れ立って姿を現
した。
「邪魔するぞ」
「おっ、すごいご馳走だな〜」
「つまみ食いするんじゃないわよ！クリスのなんだから！！」
アレフがクリスの前の料理に興味を示した途端、パティから鋭い言葉の釘が
放たれた。
「へいへい。んじゃ、ドリアを頼むわ」
「パティ、俺にはピラフを頼む」
２人はそれぞれの注文を出すと、クリス達と同じテーブルについた。
そして、つくやいなや、グローウォームはいささか憮然とした表情でデアリン
グを見やった。
「見事な活躍だったらしいな」
言葉だけは誉めているようにも聞こえるが、口調がはっきりと非難の色を含
んでいるグローウォームの台詞に、デアリングは両手を上げて言い訳した。
「頼むから私が彼女達を巻き込んだとかは思わないでくれないかな？本当なら、
パティ達に気付かれない内に片付けるつもりだったんだから」
「んなことは分かってる」
そう、グローウォームにしても、デアリングがパティ達を意図的に危険にさ
らしたとは思っていない。どちらかと言えば、パティ達が向こう見ずにも危険
に突っ込んだというのが正解だろうと思っていた。それでも、パティ達がこん
な危険に関わった、という事実に怒りを押さえることは出来なかった。
風向きがあやしくなってきた事を敏感に察知したリサが、とっさに話をそら
しにかかった。
「ところでデアリング。あの連中、何が目的だったんだ？」
それが誤魔化しのためであることはすぐに察知したグローウォームだが、自
分の怒りがかなり理不尽であることも同時に理解していたので黙ってリサの誤
魔化しに付き合った。
「俺も聞きたい。何でわざわざお前が相手をする必要があったんだ？」
グローウォーム、リサ、クリス、アレフ、マリア、それに水を持ってきたパ
ティの視線を集中されて、デアリングは苦笑を浮かべた。
「そんなに注目しないでくれないかな。大した理由じゃないよ。私がジョート
ショップの監視をしているのは知っているだろ？」
「あれ・・・監視なのか？」
デアリングの「監視」を見ているアレフがそう突っ込んで来るが、彼は聞こ
えないふりでそれを無視した。
「で、当然ジョートショップの周辺にも目を向けているんだけど、そのおかげ
であの連中がシーラ誘拐を企んでいるのを知ることが出来てね」
「シーラの！？」
「そう。彼女の家だって、結構な資産があるからね。それに、マリアと違って
さらいやすいと思ったんだろうね」
「なるほど」
「ぶ〜、何よ、みんなそろって！！」
デアリングの言葉の後半部分に思いっきり頷かれ、マリアは頬を膨らませて
抗議する。それをなだめたのはデアリングだった。
「マリア、君なら黙って誘拐されたりしないだろ？少なくとも、魔法で抵抗で
きる。そんな君よりは、シーラの方が楽だと思えたって事さ」
そう語ると、マリアが何か言う間を与えず先を続けた。
「で、話を戻すけど、誘拐の計画を放っておくわけにもいかないから、私が押
さえに行ったってわけ」
そこまで語ると、デアリングは深々とため息をついた。
「私１人で何とかしようと思っていたのに、まさかパティ達が側にいるとは思
わなかったよ。３０人を魔法で引っかき回すために、わざわざ魔力を保存し
てある魔晶石まで用意したのに」
そう言うと、彼は懐から握りこぶしほどの大きさの石を取り出して見せた。
先の戦いで、多数の魔法を使えたのも、この石に蓄えられた魔力のおかげであ
る（その性質は、エルがしている魔力チャージ用のイヤリングに似ている）。
「まぁ、そのおかげで滅多に見れないものも見れたわけだけど」
苦笑を浮かべて、彼はそう締めくくった。無論、視線はクリスに向けている。
視線を向けられたクリスはきょとんとしてしまった。
「あの・・・僕が何か・・・？」
「おや、もう忘れたのかい？パティを抱き寄せて助けたじゃないか」
視線の意味に気がついたリサがクスクス笑いながら教えた。さりげない一言
であったが、現場にいなかった２人−特にアレフ−の好奇心を刺激するには十
分な一言であった。そして、刺激された好奇心に従って、真っ先に反応を示し
たのはアレフだった。彼は、ニヤリと笑みを浮かべるとからかうように言った。
「クリス、お前もやるようになったもんだな。パティを抱き寄せるなんて」
「ア、アレフく〜ん」
「ま、実際大した成長だと思うがね。この間まで、看病すら嫌がっていたこと
を考えればな」
「グロウさんまで・・・」
真面目に言われて、クリスは返す言葉も出ずにうらめしそうな視線をグロー
ウォーム、アレフの２人に向ける。もっとも、２人ともそんな視線で動じるほ
ど可愛げのある男達ではない。いたって平然たる態度である。
それどころか、アレフはさらにからかう気配を見せていた。
「それで、どうだった。パティの体の感触は？ちょっとでいいから俺に・・・」
バコッ！
「いい加減にしないと、殴るわよ！！」
下世話と言った方が早そうなアレフの台詞を、パティはトレイで相手の頭を
叩くという行動と、続けざまの叫びとで断ち切った。さらに彼女は、鋭い視線
でデアリングとグローウォームの２人をにらみつけた。
「あんた達もあんた達よ！変な話題を振ったり、混ぜっ返したりするんじゃな
ーい！！」
その叫びを受けて、デアリングはグローウォームにささやきかけた。
「なんだか、パティがクリスの保護者しているみたいだねぇ」
「クリスには丁度いいんじゃないか？パティも色気が前面に出すタイプじゃな
いしな」
「ちょっとグロウ！どういう意味よ、それは！？」
グローウォームのささやきは、気が立っているパティにしっかり聞かれてい
た。鋭くかみついた彼女に、無謀にも突っ込みを入れたのは、先ほど頭を叩か
れたアレフだった。
「そりゃ、パティに色気がないって事だろ？人の頭をポンポン殴るようじゃ、
色気以前の問題だと思うけどな」
「何ですってぇ〜！！」
すっかり頭に血が上がったパティは、再びアレフの頭をトレイで叩いた。
「おいっ、パティ！人の頭をポンポン殴るなよ！！」
「殴ってんじゃないわよ！叩いてんのよ！！そんな口、叩けるくらいに手加減
してあげてんだから、感謝してよね！！」
アレフの無謀な突っ込みのおかげでパティの矛先から逃れた２人は、無情に
もアレフを見捨ててさくら亭から避難したのだった・・・。
さくら亭を抜け出たデアリングは、グローウォームと並んで歩いていた。し
ばらくは２人とも無言だったが、ジョートショップが近くなるとグローウォー
ムが口を開いた。
「さて、真相を聞かせてもらおうか」
「さくら亭で言ったじゃないか」
「表向きはな」
「・・・・・・」
暗に「裏があるんだろ？」と言われたデアリングは足を止めると、無言で夜
空を見上げた。そんな彼に合わせて足を止めたグローウォームはさらに追及す
る。
「身代金目当ての誘拐で３０人の徒党を組む馬鹿がどこにいる？どんなに大金
を取ったところで採算が取れやしない」
「・・・・・・」
「それに、わざわざシェフィールド邸に押し入るくらいなら、そこにある家財
道具を分捕った方がよほど効率的だ」
「単なる馬鹿かも知れないよ」
「この時期、ジョートショップを手伝う奴を選んでか？まだ、俺を嫌った奴の
犯行っていう方が説得力あるぞ」
この言葉に、デアリングは無言で髪をかき回した。
「・・・君を相手にしゃべり過ぎたかなぁ？」
「いいから言え」
「はぁ・・・他言無用と報復厳禁。この２つを約束してくれる？君の容疑に関
わることなんだけど」
「ってことは、例の事件の真犯人が何か仕掛けたんだな？」
「まぁ、そう言うことだね」
軽く肩をすくめながら、デアリングは頷いて見せた。
「何故、シーラなんだ？何が目的だ？」
「平たく言うと、彼女の誘拐自体は目的じゃない。君を怒り狂わせるための、
ワン・ステップだったんだよ」
「ふざけた話だ」
「さらにふざけた事にね、連中、誘拐で怒り狂った君なら、偽の脅迫状１つ送
るだけで、何の関係もない人に襲いかかるだろうと考えていたんだよ」
「だんだん腹が立ってきたな」
グローウォームは感情を感じさせない声音でポツリと呟いた。そんな彼に、
デアリングは大きく頷いて見せた。
「だろうね。人を見くびるにもほどがあると私も思うよ。でも、連中はそう判
断して誘拐を実行しようとした。実行されては困るから、私が先手を打って
おいた・・・これが裏面だよ」
「そこに、パティ達が飛び込んだ」
「そういうこと」
苦笑に近いものを浮かべて、デアリングは頷いた。だが、グローウォームは
口の端さえほころばさず、鋭い視線を送り込んでいる。
「だがな、この件でこんな馬鹿なことが続くようなら、俺も黙ってはいないぞ」
「大丈夫だと思うよ。連中の矛先が私の方に向かうように小細工をしておいた
から」
「小細工ね・・・」
「そ。今ごろ、肝を冷やしていると思うよ」
「それでも懲りなければ？」
その問いを受けた途端、デアリングの視線が冷たくなった。
「その時は、連中の残り少ない自由な時間が、さらに短くなるだけ、さ」
「いいだろう。お前に任せる」
デアリングの暗喩を理解したグローウォームはそう言って、再び歩き始めた。
少なくとも、この２人の間では、これで決着がついたのであった。
ところで、デアリングが言うところの「肝を冷やしている男」ことハメット
・ヴァロリーは、確かにデアリングが語った通りに肝を冷やしていた。ただ、
その原因はデアリングが仕掛けた「置き土産」ではなかった。原因は、ハメッ
トにとっての「城」であるショート邸の執務室に来れるはずのない人物が出現
したからである。
「馬鹿な・・・」
その人物が入って来たのを見て、ハメットは首を絞められたかのようなうめ
き声を上げた。続けて、いつも以上に高い声で叫んだ。
「な、何故あなたがここにいるのです！？」
「何故、とは愚問だな。忍び込んだに決まっているではないか」
その人物−かつてハメットも属していた組織の長−は平然、というのも馬鹿
馬鹿しくなってくる平素の態度でそう応じた。そんな彼に、ハメットはもはや
悲鳴一歩手前の声で叫んだ。
「ですから、どうやって忍び込んだというのです！？この屋敷には厳重な警備
システムが張り巡らせてあるというのに！！」
「簡単なことだ。警備システムが張り巡らせてない地下を通ってくれば、誰で
も忍び込める」
「な、ん、ですと・・・？」
「ああ、君は知らないのだったな。我々はその目的遂行のために、エンフィー
ルドの内外に地下通路を張り巡らせてあるのだよ」
「・・・・・・」
もはや、あえぐことさえ出来なくなったハメットに向け、彼は淡々と言葉を
継いだ。
「無論、このショート邸とて例外ではない。内外に向け、複数の地下通路が延
びているのだ」
ここで彼は閉じていた目を開けて、すっとハメットを見据えた。
「エンフィールドの裏面に潜む我々がその程度の備えさえしていないと思って
いたのかね？その程度の思慮も出来ないから、君に退会を命じたのだ。あの
会は、思慮の足りない者が構成員になれるほど、生易しいものではないのだ」
そこまで語ったかと思うと、彼は不意に視線を窓の方に動かした。
「それに、この屋敷の警備は、決して突破できないものではないらしいな」
「どういう意味です！！」
「窓の外を見たまえ」
「！？」
言われるままに慌てて窓の外を振りかえったハメットは、そのまま体を硬直
させた。そこには、ロープでぐるぐる巻きにされた男が転がされていた。それ
は、シーラ誘拐を命じた男の１人であった。体には何事か記されたメモが張り
つけられている。そのメモにはこう記されていた。
『デアリング・デッキサイドある限り、ジョートショップに手を出すことはか
なわざるものなり』
「こ、これは一体・・・？」
ハメットは知るよしも無かったが、この男はデアリングやパティ達にノされ
た後、シグレとヒサメの２人がこの場に運び込んだのである。無論、メモの方
はデアリングが書いたものである。
「要するに、勝利宣言というやつだろうな。自分を殺さない限り勝ち目は無い
ぞ、という意味のな」
「く・・・」
「さて、私も用件を済ませて退散するとしよう。ハメット・ヴァロリー、これ
以上、不穏な動きを見せるようであれば、君の身命、長くはないものを思え」
今までとはうって変わった、殺気すら感じさせる声に、ハメットは急激に体
の自由を奪われた。それでも、窓を振り返った姿勢のまま、何とか声を振り絞
る。
「脅迫、ですか・・・？」
「どう受け止めてもらっても結構。ただ、２度も同じことをする意思はないか
らそのつもりでいたまえ」
彼はそう言うと、執務室のノブに手をかけた。
「今の言葉を忘れないようにするのだな。そして、私達はいつでも、好きな時
に、この屋敷に入ることが出来る、ということの意味をしっかりと考えたま
え」
そう言うと、音も立てずに執務室を出ていった。
バタンというドアの閉じる音で呪縛を解かれたハメットは、弾けたように執
務室を飛び出した。だが、その廊下には既に誰もいなかった・・・。
「やれやれ・・・」
どうやってか分からないが、来るときに用いた地下通路に戻った男は、軽く
頭を振った。その表情は憂鬱の色が濃い。
「どこも後継者に恵まれているとは言えんな・・・」
この言葉が、彼の憂鬱の原因を示していた。ショート財団もそうだが、彼の
組織もまた、後継者がいないのだった。
（後継者をもっと早くに育てておくべきだったな・・・）
その、苦い思いがこみ上げてくる。だが、もう遅い。せめてもの救いは、後
継者にできそうな若者達が生きている内に見つかった事だろう。
（だが・・・まだ早い。彼らはまだ２０になったばかりなのだ。あと１０年・
・・いやせめて５年あれば・・・）
それだけの年月があれば、後継者と見込んだ若者達を鍛え上げ、事後を託す
ことも出来ただろう。だが、８０に届こうかという高齢の彼に、それだけの時
間が与えられるかどうか・・・
「いまさら言っても始まらんか・・・」
再び首を振ると、彼は地下通路を進んで行った。
デアリングと誘拐未遂犯の戦いにパティ達が巻き込まれた一件。これは表面
的には偶発事であり、それ以上の意味を持っていないように思われた。
だが、実際には水面下での闘いで追い詰められたハメットが、水面上へ飛び
出し、そこにいる人々を巻き込むために牙をむいたというのが、その本質であ
った。
もっとも、水面上の人々の方が水面下で闘ってきた者達より遥かに強かった
から、ハメットの「牙」は目的を達するどころか、誰かを傷つけることも出来
ずに水面下へ叩き返される結果に終わった。
だから、この一件は何の影響も与えることなく終わった、そう思われている。
だが、ささやかな影響ならあった。それはクリスが、少なくともパティにはそ
れほど怯えなくなったという事であった。本当にささやかであったが、それは
確かにこの一件の影響であったのだ。
そして・・・この一件のほぼ一ヶ月後、フェニックス美術館窃盗事件は、水
面下から真相を引き出され、クライマックスと終結を迎えることになる・・・。
ＥＮＤ
後書き
松です。「水面下の戦い」をお届けします。
長かった・・・；いえ、書き終えた感想がそれなんです；
何しろ、前作の完成が８月・・・；半年以上かかった勘定です；
中身はデアリングとハメットの陰謀戦（笑）。
本当は、もう少し毛色が違うというか・・・色々あるはずだったんですよ。
当初は「助けてくれた自警団員を好きになってしまうシーラ」を書く予定だ
ったんですが・・・詰まりに詰まってパティとクリスになりました(^^;
ともあれ、これでフェニックス美術館窃盗事件辺はラスト１つになりました。
こちらはある程度書いてあるから、そう時間がかかることはない、はず；
どんなに遅くとも、３月末にはラスト導入編をＵＰします（完成はした；）。
それでは、こんな所で。
感想、ご意見などは掲示板へどうぞ
松