アリサ・アスティアは全てを包み込むような優しさと温かさを持つ、しとや
かな女性だとエンフィールドの住民のほとんど−特に若い男達−は思っている。
そして、それは疑う余地のない事実でもある。
だが同時に、結婚前の彼女がどんな人であったか知る人もいない。だから、
彼女と今は亡き夫との間で、どんな恋愛が展開したのか、知るものはいないの
だ。
大半の人は、今の彼女から逆算して、「亡くなった旦那さんが積極的にアプ
ローチしたんだろう」と思っている。だが、それはあくまで想像である。確た
る事は当のアリサに聞かなければ分からない。もっとも、そんな事を彼女に聞
こうとする「無作法者」はいない。そんな事をするには命知らずの度胸が必要
だからだ。
そんな訳で、アリサの「なれそめ」は秘密のベールの向こう側から引き出さ
れることはなかった。だが、ひょっとすると、彼女の方から積極的にアプロー
チしていったのかもしれない、そう思わせる出来事が、グローウォーム・グレ
イフォードを「犠牲者」にして発生した・・・。
その夜、グローウォームは真夜中に目が覚めた。誰かが彼の部屋に入ってき
たからだ。
（誰だ・・・？）
ほとんど条件反射で枕の下に隠したナイフに手を伸ばす。だが、すぐにそん
な行動が無意味な事に気付いた。入ってきた人が、彼の恩人にして身元引受人
であるアリサだという事を気配だけで察知したからだ。
（ならいいか・・・）
あっさりと警戒を解いて、再び眠りにかかる。彼にとって、アリサは「その
前で無防備に寝込んでも大丈夫な人」なのだ。
再びうつらうつらし始めたグローウォームは、それでもアリサが枕元に来た
ことに気付いた。それを不思議に思ったものの、別に警戒しようとは思わなか
った。そのまま眠りにつこうとする彼の頬に、彼女の手が触れる。温かい感触
に、少しくすぐったいものを覚える。精神的に何かあった時に、アリサに触ら
れるのはすごく安心するのだが、何もない時にそうされるのは逆に落ち着かな
い。
（だからって、今さら目を開けるわけにはいかないしなぁ）
そんな事をしたら、すごく気まずい事になる。そうなるくらいなら、だまっ
てアリサのなすがままになった方がいい。そう判断して、彼は「寝たふり」を
決め込んだ。
ところが、アリサはただ、頬を触るだけでは済ませなかった。彼女はしばら
くその指で彼の頬をなでていたが、不意に身体をかがめたと思うと、彼の唇に
自分のそれを重ね合わせたのだ。
（！！？？！？）
グローウォームは、最初何が起こったのか分からなかった。温かくて柔らか
い何かが唇に触れた、としか分からなかったのだ。それがアリサの唇だと理解
すると、彼はパニックに陥った。
（な、なん・・・！？）
とっさに跳ね起きずに済んだのは、意識の混乱が激しくて肉体が意識に追従
出来なかっただけにすぎない。そんな金縛り状態の彼に、アリサはそっとささ
やいた。
「おやすみなさい」
そうして、彼女は足音も立てずに部屋を出た。彼の金縛りが解けたのは、彼
女がドアを閉める微かな音が耳に届いた直後であった。
音と同時に、彼は跳ね起きた。自分が感じた感触が幻でも錯覚でもない事を
確認するように、唇に触れる。
「一体、何なんだ・・・？」
ポツリともらす。その後、彼はまんじりともせずに、朝を迎えたのだった・
・・。
さて、その朝。グローウォームは寝不足の影響を一切感じさせない表情で降
りていった。もっとも、その内心は平静とは程遠いものであり、昨夜の事で慌
てたりしないようにしようと目一杯身構えているのだが・・・。
「おはようございま・・・」
食卓に並ぶ朝食であろうものを、一目見るなり絶句してしまった。そこに並
んでいるのは、どう考えても「朝食」用としては手のこんだ料理の群であった
からだ。
「おはよう、グロウクン。さっ、座って。今、スープを持ってくるから」
何故か弾むような楽しげな声で迎えると、アリサは軽やかに身をひるがえし
台所へ向かった。一方、完全に混乱してしまったグローウォームは、事態の理
解のために最も安直な手段を選んだ。すなわち、常にアリサの側にいるテディ
に問い質したのだ。
「おい、テディ。アリサさん、一体どうしたんだ？あんなアリサさんは初めて
見たぞ」
「ボクにも分からないっス。あんな楽しそうにしている御主人様は初めて見た
っス」
「そうか・・・」
「グロウさんは心当たりないっスか？」
「あったら、お前に聞いたりしないぞ」
まったくもってごもっともな、グローウォームの返答だった。２人（？）が
そんな会話を交わしていると、アリサがスープの注がれた皿を持って戻ってき
た。
「お待たせ。さあ、食べましょう」
その一言に、グローウォームもテディとの問答を打ち切って、朝食の席につ
くことにした。２人しか食卓にはつかない（テディは派手に食い散らかすので
離されている）ので、必然的にお互い向かい合う事になる。その向い側、すな
わち目の前にいるアリサに、彼は何か違和感を覚えた。単にいつもよりうれし
そうにしているとかに止まらない何か、その正体を把握しようと彼女の顔をじ
っと見る。
「やだわ、グロウクン・・・そんなにじっと見つめて・・・」
視線に気づき、恥ずかしそうに頬を赤くするアリサ。彼女のそんな仕草を見
たグローウォームは、背中に涼しすぎる何かが通り抜けるのを覚えた。これは
何かがおかしいなどと言うレベルではない。ある意味において、身の危険すら
感じる彼であった。
そういった諸々の理由から、反応できずにいるグローウォームに、アリサは
タコさんウインナーを刺したフォークを彼の前に差し出してきた。
「はい、グロウクン☆」
「はい？」
アリサの行動の意味が分からず、思わず裏返り気味の声で反射的な返事を返
してしまうグローウォーム。そんな彼に、アリサは爆弾発言を投げかけた。
「私が食べさせてあげるから・・・口を開けて」
ビキッ・・・
彼女のたった一言で、彼は完全に硬直してしまった。それくらい、日ごろの
アリサからは想像もつかない台詞だったのだ（少なくとも、グローウォームに
とっては）。
「・・・い、いや・・・自分で食べれますから・・・」
たっぷり１０秒以上の時間をかけて立ち直り、やはり１０秒ほどかけて見つ
け出した言葉を返す。が、一瞬後に選択の失敗を思い知らされた。
「そんな・・・私に食べさせてもらうのは、嫌なの？・・・」
とことん悲しげな表情のアリサの、悲しげな一言を食らって、グローウォー
ムは黙りこくってしまった。ここでアリサの願いを蹴るような種類の勇気とか
度胸とか（あるいは無謀さ）を、ひとかけらほどでも持っているようなグロー
ウォームではない。とはいえ、このままアリサに「食べさせてもらう」のを受
け入れられるような男でもない。蛮勇を振るってでも断るか、それとも後日の
トラブルの種になるのを承知の上で受け入れるか、今度は３０秒間悩んで、彼
は選んだ。
「・・・分かりました、お願いします・・・」
トラブルの方が、アリサの願いを断るより遥かに気楽。それが彼の決断だっ
た。もっとも・・・
「ええ。それじゃあ、グロウクン、アーンして☆」
こういう事を言われると、思わず敵前逃亡を決め込みたくなる。そんな思い
を必死で押さえつつ、彼は口を開けた。
こうして、この日の朝食はグローウォームにとって、精神修養の場と化した
のだった・・・。
さて、その日の昼、シーラと共に劇場で仕事（剣舞と劇のＢＧＭ）をしてい
たグローウォームは昼食をさくら亭でとる事にした。彼からその事を告げられ
たシーラは、劇場支給の食事でも、さくら亭よりよほど近い位置にあるジョー
トショップでの昼食でもなく、わざわざ離れた位置にあるさくら亭に行く事に
疑問を覚えたが、さくら亭が忙しくてジョートショップの仕事を手伝えないパ
ティと、そこで用心棒の仕事をこなすエルの様子を見に行くのだろうと考えて、
黙って頷いて同行した（彼女にとって、グローウォームは「一緒にさくら亭へ
行ってもかまわない男性」なのだ）。
そのさくら亭。２人が顔を出した時、既に昼の混雑のピークは過ぎたらしく、
カウンターに２人並んで座れるくらいには空いていた。
「いらっしゃーい、って・・・シーラにグロウじゃない」
「何でここに来たんだ？お前達は劇場での仕事だろ？」
パティとエルが、顔を見るなり聞いてきた。それに対するグローウォームの
返答は、
「まぁ、何となく、な・・・大した理由はないんだが・・・」
という、ほとんど返事になってないものだった。その上、表情にはわずかな
陰りがあるわ、ため息をついているわでは、「大した理由はない」という言葉
も説得力に欠ける。当然、エルもパティもあっさりと一蹴した。
「その割には、表情が暗い」
「じゃあ、そのため息は何なのよ！？」
「・・・・・・」
２人の反論にグローウォームは目を閉じ、額に手を当てた姿勢で黙り込んだ。
答えるのを拒むようにも、答えを考えているようにも取れる態度。そんな彼を
三者三様の態度で、黙って見つめる３人。彼女たちのそんな無言の問いかけに、
グローウォームはゆっくりと呟いた。
「アリサさんが、ちょっとな・・・」
「アリサおばさんが？」
「その・・・変なんだ」
「はぁ！？」
パティの声が思わず裏返る。「アリサが変」。この男から出る台詞としては、
もっとも予想外のシロモノだった。
「変って・・・何が変なんだ？」
問いただすエルの口調も戸惑いの色を隠せない。それに対し、グローウォー
ムは無言で髪をかき回していた。今度こそ、どこまで答えたものか迷っている
のが見て取れる態度だった。が、それもそんなに長くは続かない。３人に促さ
れるより早く、ポツリと呟く。
「その・・・妙に俺の世話を焼くんだ・・・」
この説明で、３人はますますわけが分からなくなった。アリサがこの男に世
話を焼くのは、当の本人とて受け入れているはずの事ではないのか？そんな疑
問を、３人を代表する形でシーラが口にした。
「アリサおばさまがグロウくんの世話を焼くのは、いつもの事だと思うんだけ
ど・・・？」
「ウインナーをフォークに刺して、それを差し出しながら『食べさせてあげる』
っていう世話はいつもの事じゃないぞ」
げんなりとした口調で、彼はそう応じる。そんな口調も十分に珍しいのだが、
エル達にはその口調より、告げられた「回答」の方が珍しすぎるくらいの珍事
であった。思わずエルとパティは彼に対して問い掛ける。
「はぁ？何だそりゃ？」
「ちょっと！何なのよ、それは！？」
「分かっているんなら、悩んだりしないで解決に取り掛かっている」
「そりゃそうだろうけど・・・」
全くもってもっともなグローウォームの返答に、どうにも納得いかないパテ
ィが何か言い返そうとした時、新たな来客があった。
「おじゃまします・・・あ、グロウクン、ここにいたのね」
柔らかさと暖かさを感じさせる声でなされた呼びかけに、グローウォームは
声の主からは見えない半面を引きつらせた。その器用さに、パティとシーラの
２人は思わず彼を注視してしまった。そんなわけで、呼びかけにただ１人、応
じる事が出来たのは、たまたま彼の器用さを見ずに済んだエル１人であった。
「あれ、アリサじゃないか。どうしたんだ？」
「お昼の用意が出来たから、グロウクンと一緒にと思って・・・。よかったわ、
ここにいて」
「えーっと・・・」
そのグローウォームはと言えば柄でもない冷や汗など流しつつ、どう逃げる
か必死になって考え始めていた。朝食時の悪夢の再現は全力をあげてご遠慮し
たい、というのが彼の本心だからだ。
が、アリサの行動は、彼に考えを巡らす余裕を与えない。いきなり彼の腕に、
自分の腕をからめたかと思うと、グイグイと引っ張り始めたのだ。
「さ、グロウクン。一緒に食べましょ☆」
「いえ、あのですね、アリサさん・・・あのー・・・・・・」
ズルズルズル・・・という擬音こそつかないものの、グローウォームはアリ
サに引っ張られてさくら亭を後にする羽目になってしまった。無論、彼が本気
になって抵抗すればアリサの力に対抗する事などたやすいし、そもそもアリサ
の腕力でグローウォームを引っ張る事など不可能である。だが、無意識になさ
れる彼女への配慮が、グローウォームの足を動かし、アリサに「引っ張られる」
事を可能にしているに過ぎない。
一方、取り残されたエル、パティ、シーラの３人は、呆然となったまま、
「引っ張られていく」グローウォームを見送ってしまった。彼女達が立ち直っ
たのは２人が出ていき、カウベルが鳴った後である。
「どう思う？」
立ち直ると同時に問いかけたのはエルだった。振り返り、パティとシーラを
等分に視界に収めながらの彼女の問いに、２人とも答えられない。
「どう思う、って聞かれても・・・」
「アリサおばさまがいつもと違う・・・って事は分かるけど・・・」
「そうだよな。あのアリサはいつものアリサじゃない。それは確かだけど・・
・だけど、何でああなったんだ？」
そう、何故そうなったのか、が説明つかない。そして、それはこの３人の誰
も説明できないのだった。答えを求めて考え込んでしまった３人の間に降りた
沈黙は、半透明の乱入者によって破られた。
「それは恋よ、恋！！」
「きゃ・・・！」
「ちょっとローラ！いきなり出てこないでよ！びっくりするじゃない！！」
シーラは悲鳴を飲み込み、パティは今さっきまでグローウォームが座ってい
た場所に突然現れた、幽霊ならぬ精神体のローラに向かって抗議の声を上げる。
もっとも、当のローラは平然たるものだ。彼女と同じくらい平然としているエ
ルが、彼女の発言の説明を求める。
「で・・・恋ってのは、アリサが誰かに、って事かい？」
「他にいないじゃない」
ちょっとの間だけローラはむくれたが、すぐに目を輝かせて想像を話し始め
る。
「アリサおばさまは、グロウお兄ちゃんを好きになったのよ。それで、ああや
って気を引こうとしているのよ」
「まさか」
笑い半分に一蹴するエル。そんな彼女の内心を代弁するかのように、パティ
が異議を唱える。
「大体、アリサおばさんが好きなのは・・・」
亡き夫のはず。だが、あえて口には出さない。あまり軽々しく口にしていい
事でもないように思えたからだ。
「じゃあ、他に何の理由があるって言うのよー！！」
自分の意見を否定され、ふくれっ面になって叫ぶローラ。確かに、ローラの
見解以外で、アリサの行動を説明するできる見解はちょっと思い付かない。考
え込んでしまった３人を尻目に、ローラの想像（妄想？）はどんどん膨らんで
いく。
「自分が助けた若者に、いけないと思いつつも惹かれていくうら若き未亡人！
ああ、どうなるのかしら？もしかしてあんなことやこんなことも・・・きゃ
ーっ！きゃーっ！きゃーっ！！」
「ちょっと、ローラ！大声出さないでよ！！他のお客さんに迷惑でしょ！！」
大声を上げた途端、パティが鋭く注意する。そして、エルはポツリと呟く。
「ま、ローラの冗談はさておき、実際にグロウかアリサかに詳しく話を聞かな
いと、見当もつかないな」
「じゃあ、今日のお仕事が終わったら・・・」
「ま、そんなところだね。終わったら、アタシが聞いておくよ」
仕事の後にはピアノの稽古があるシーラに向かってそう請け負うと、エルは
エメラルドを思わせる髪をかき上げつつひとりごちた。
「それにしても・・・あいつ、今ごろどんな目にあっているのやら」
その頃、エルいわくの「あいつ」は・・・。
「はい、グロウクン。アーンして☆」
アリサ手製のピザを、彼女の手で食べさせてもらっていた。アルベルトあた
りがこの光景を目撃したら、嫉妬と羨望のあまりどうかなってしまいそうだが、
当の本人は全然うれしくなかったりする。はっきり言えば、第三者の登場を期
待しているくらいなのだ。
（リサでもピートでもいい。ピザの匂いにつられてここに来てくれ・・・）
対象者達が聞いたら憤慨ものの希望を抱きながら、彼はもはや精神的拷問と
化した昼食を続けていたのだった。
さて、その夜。仕事の終わったグローウォームは、エルの「事情聴取」のた
めに陽のあたる丘公園へと呼び出されていた。
「ふーん、そういう事か・・・そいつはまた、なんともはや」
グローウォームからアリサの「奇行」を聞いたエルは、そう呟くと苦笑をも
らした。
「笑い事じゃないぞ。おかげで、こっちはノイローゼになりそうだ」
「お前がそんな可愛げのあるガラか」
彼の文句をあっさりと一蹴するエル。ちょっと恨めしげに彼女を見るグロー
ウォームをおいて、彼女は事態の分析に取りかかる。
「・・・で、アリサが今日みたいになったのは、これが初めてか？」
「ああ。テディにも聞いてみたが、あんなアリサさんは初めて見たらしい」
「うーん・・・」
表情を引き締めて答えるグローウォームに、エルは考え込んでしまった。考
えがまとまらない彼女は、新たな情報を求める。
「じゃあ、アリサがおかしくなったのは昨日の夜からか？」
「ああ・・・」
「すると、何かあったとしたら昨日の昼間って事か・・・何か心当たりはない
のか？」
「アリサさんにか？・・・いや、何もないはずだが・・・何しろ、昨日はロー
ラに付き合わされたからなぁ」
半ばぼやくような口調で、彼は答える。その答えに、意外さを禁じえない彼
女は思わず問いただす。
「ローラと？あいつのお気に入りは、自警団のデアリングじゃなかったのか？」
難病のため１００年間眠っていたローラは、どういうわけか精神体だけが目
覚め、今にいたっている。そんな彼女の一番のお気に入りは、自警団第三部隊
のデアリング・デッキサイドである（彼女が教会に「無断入居」した時に、何
かあったらしい）。その彼に対し、隙あらば「遊んで〜」攻撃をかけるローラ
がグローウォームを誘うのは珍しい。そんなエルの疑問に対する彼の回答。
「デアリングの方が仕事で忙しくて、最近遊んでくれないんだと」
「なるほどね・・・」
エルも納得する。自警団第三部隊という所は、過労で倒れるほど忙しい、と
言うほど忙しくはないが、だからといって暇をもてあそべるような部署でもな
い。それに、何か事件が起これば、遊ぶ暇など当然なくなる。おおかた、何か
厄介事でも起こったのだろう、とエルは解釈した（事実その通りで、この時期、
デアリングは厄介なことこの上ない水面下の非公式捜査を担当していた）。
「まぁ、明日、テディか当のアリサさんに聞いてみるか・・・」
「それが一番だろうね。あの２人に心当たりがあればの話だけど」
エルの言葉に、グローウォームは苦笑してみせた。
「それに、アリサからなら今夜あたりにでも聞けるかもしれないけどな」
「何だそりゃ？」
「今夜もアリサが夜這いをかけるかもしれないってことだよ。決まってるだろ」
「あのなぁ・・・」
頭を抱え込んだグローウォームを見て、エルは楽しげに笑った。何しろ、こ
の男が、こんな風に頭を抱える光景など、まず見れないからだ。そして、笑い
ながら彼の頭を軽く叩くと、冗談半分に付け加えた。
「ま、せいぜいアリサの『夜襲』に気を付けな」
「こりゃ、今夜も徹夜か・・・」
２日連続ってのは、つらいんだがなぁ。彼は、心の中でそうぼやいた。
翌朝、アリサの「夜襲」を警戒し、ほとんど寝ずに過ごしたグローウォーム
は、睡眠不足ゆえの重い頭を振りつつ食堂に姿を見せた。
「おはようございます」
「おはよう、グロウクン☆」
昨日と同じ、弾むようなアリサの声を聞き、グローウォームは小さくため息
をついた。
（全然変わってない・・・今日はどうなることやら・・・）
思わず憂鬱な気分に浸っていると、何やら決意を秘めたらしいアリサが声を
かけてきた。
「グロウクン、大事な話があるんだけど、ちょっといいかしら？」
「え？ええ、いいですよ」
「ありがとう。テディ、悪いけど、しばらく２人きりにしてもらえるかしら？」
「そうッスか？それじゃ、しばらく上で待つッス」
そう言って、テディはトテトテと階段を上がって行った。その姿をなんとは
なしに見送ってから、グローウォームはアリサに向き直った。
「それで、話とは・・・？」
「それなんだけど・・・」
アリサはそっと彼に近づくと、おもむろに抱きついた。
「なっ・・・！？」
「グロウクン、私のこと、どう思う？」
いきなりの事に驚くグローウォームに、アリサはうるんだ目で見上げつつ問
いかけた。このシチュエーションでこの問いを投げかけられて、その内側にあ
る意味を汲み取れないほど彼は鈍くはない。だが同時に、その「意味」に素直
に答える事に対して恐怖を覚えてもいた。だから、彼はあたりさわりのない回
答を返した。
「どうって・・・俺にとっては２重３重の意味で恩人で・・・」
「それだけ？」
「えーっと・・・」
あっさりとごまかしを粉砕され、グローウォームは言葉に詰まった。どう答
えたものか悩んでいる間に、アリサは自分の体をさらに密着させてきた。そし
て、普段のアリサからは想像できないほどの色気を感じさせる瞳で、彼女はグ
ローウォームを見上げる。
「私のこと、１人の女として見て・・・」
「あの〜〜〜〜」
「それとも・・・グロウクン、年上の女は嫌い？」
「えー・・・・・・」
追い詰められて、滝のごとく冷汗を流しまくるグローウォーム。ここで実力
をもってアリサを振り払ってしまえば楽なのだが、そんな事が出来るくらいな
ら、昨日の段階で「食べさせてもらう」事を断っているであろう。
と、いった理由でただただ固まりつづける彼に、アリサはまだ気づいていな
いと判断して、さらに迫っていった。
「グロウクン・・・」
目を閉じ、彼の唇に自分のそれをゆっくりと近づける。
「あ、あ、あ・・・」
「大丈夫、怖がらないで・・・」
ある種の妖艶ささえ感じさせる声でささやきかけると、アリサはさらに近づ
いていったが・・・
ドンドン
「こんちわー。アリサさんいますか？」
一方的な宣言で邪魔された。続けて、相手の返答も待たず長身のアルベルト
が姿を見せ・・・そして、「アリサがグローウォームを抱きしめ、キスしよう
としている」シーンを見る羽目になってしまった。
このような事態は、かつて「ノックぐらいしろ」とエルに言われ、グローウ
ォームには「無断で押し入って来るな」とまで言われたにもかかわらず、それ
らの言葉を無視し続けた報いが返ってきたのだと言えなくもない。もっとも、
今のアリサであれば、たとえ他人の目の前であってもかまわず迫った可能性は
大きいから、一概にアルベルトの自業自得と言うのは、少し酷かもしれない。
ともあれ、はっきりと言える事はこのような光景を目撃して平然としていら
れるほどアルベルト・コーレインは沈着冷静な男ではない、ということだ。
「・・・・・・・・・」
それでもアルベルトはしばし沈黙していたが、それは目の前の光景があまり
に衝撃的すぎて、理解に時間がかかったからに過ぎない。その証拠に、槍を握
手が小刻みに震えていた。
「あら、アルベルトさん、いらっしゃい。どうなさいました？」
グローウォームに抱きついたままのアリサが平静に問うたが、はっきり言っ
て、これはとどめの一撃であった。
「き、き、き、き・・・・・・」
憤怒のあまり顔を朱に染めたアルベルトが、震える声と共にハルバードを突
きつけた。
「貴様ぁ！アリサさんに何をしている！！？」
「何かしているのはアリサさんの方なんだが・・・」
突きつけられたはずのグローウォームは、なんとも疲れた口調で応じる。ア
ルベルトが喧嘩を売りつけにかかっているこの状況下にしては、珍しいほどに
気力の抜けた応答である。アリサの「積極攻勢」の前に気力を使いきってしま
ったのかもしれない。
だが、嫉妬に狂ったアルベルトにそんな事を見抜く力があるわけもない。こ
の返答を「ふざけている」とみなして、ますます怒り狂った。
「グローウォーム、てめぇ、許さん！！許さん、許さん、許さん！！逮捕だぁ
っ！！」
一方的にわめき散らしたかと思うと、アルベルトは不意に黙り込む。しばし
の間を置いてから放たれた一言は、さらに物騒な代物だった。
「・・・いや・・・ぶっ殺す！！」
「おいおい・・・」
疲れきった口調でぼやきつつ、グローウォームはアリサを抱き上げて行動の
自由を確保し、すさまじい勢いで繰り出されるハルバードをかわす。
そんな光景を見せられて、アルベルトはボソッと呟いた。
「こ、殺す・・・！」
この呟きに、グローウォームに抱きしめられる感触を楽しんでいたアリサが
危機感を覚えて行動を起こした。彼の腕から離れると、彼女はそのままアルベ
ルトにしがみついたのだ。
「アルベルトさん、止めてください！！」
「ア、アリサさん！？離して下さい！！俺は、俺はーーーっ！！」
「グロウクン、逃げてーーっ！！」
「ほいほい。それじゃ、お言葉に甘えて」
説得不能を悟ったアリサの悲痛な叫びに、切実さとか緊迫感とは無縁の口調
で応じたグローウォームは、これ幸いとばかりにジョートショップから逃げ出
した。
「さーて、どうしたもんだろうな・・・」
どうにも質の悪い冗談のような気がする彼は、立ち止まり、どうにも真剣さ
に欠ける口調で呟く。すると・・・
「てめぇ、逃がすかぁ！！」
アルベルトがジョートショップから飛び出してきた。どうやらアリサを振り
払ったらしい。
「意外に勇敢な奴だったんだな・・・」
角度が５０度ほどずれた感想を漏らすと、グローウォームは全速で逃げ出し
た。
そんな騒ぎは全く知らない平和なさくら亭。そこでは、既に朝食を終えたパ
ティが、待ち構えているリサ用の３人分の食事を作っていた。
カランカラン・・・
「悪い、パティ。かくまってくれ」
「グロウ！？」
勢いよく飛び込むなりのこの一言に、パティは驚きの声を上げた。大抵の相
手なら実力で排除できるこの男が「かくまってくれ」と言ってきたのだから無
理もない。
「一体どうしたんだい？かくまってくれだなんて・・・誰かに追われてるのか
い？」
「ああ」
「ちょっと、一体誰に追われてるのよ？」
「アリサさんとアルベルト」
パティの問いに、端的なまでに明快な答えを返すグローウォーム。その明快
すぎるくせに意外極まりない答えに、２人は絶句した。
「な・・・」
「ア、アリサおばさんに、って・・・ひょっとして、昨日の・・・」
「ああ」
パティの問いかけに、短く頷く。
「昨日より悪くなった。アリサさんがいきなり抱きついたあげく、誘惑してき
た」
「うっわ〜」
「悪い事に、それをアルベルトが目撃して、怒り狂っている」
「それって・・・最悪じゃない！」
グローウォームの説明に、パティが何とも言いがたい表情に、そして驚きの
表情へと変わって絶叫した。彼も黙って頷く。
説明しておくと、アルベルトが怒り狂っているから「最悪」なのではない。
アリサが誘惑してきた結果というのが「最悪」なのだ。これでは、アルベルト
を止める人間がいなくなってしまう（実力行使以外では、だが）。
「でも、どうしてアリサさんが誘惑なんて？今までそんな素振り、見せたこと
ないだろ？」
もっともなリサの問いに、彼はため息混じりにやり返す。
「それが分かれば苦労しない。何か、妙な事をされたんだろうけどね。それよ
り・・・」
「何だい？」
「部屋を貸してくれ。一昨日から寝てなくて、頭が重い・・・」
「私の部屋を使いな。ほら、鍵」
「ありがとう。あと・・・」
「言わなくても分かってるわよ。アリサさんとアルベルトが来ても、知らない
っていうわ。だから、さっさと寝なさいよ」
そう言うと、パティはグローウォームの背中を押す。
「あ、ああ。そんなに押すなよ」
そう言いながら、彼は階段に向かう。
「おやすみ」
「しっかり寝るのよ！」
しっかり念を押しておいて、パティは１つ息をついた。
「ったく、世話が焼けるんだから」
腰に手をあて、呆れ口調で彼女はそう呟いた。
さて、グローウォームがさくら亭に逃げ込んでから１０分後、ジョートショ
ップにエルとシーラの２人が姿を現した。打ち合わせの時間にはまだ間があっ
たが、やはり昨日の事が気になっているのだろう。そんな２人の第一声は、
「ど、どうしたんですか？このありさまは！？」
「すいぶんとひどく散らかったもんだね・・・」
であった。まぁ、日ごろ整理整頓がきちんとなされた事務所しか見たことが
ないのだから無理もない。そんな驚く２人に、片づけをしていたアリサが明ら
かな安堵の色を見せながら答えた。
「シーラちゃんにエルさん。ちょうど良かったわ」
「一体、何があったんだい？」
「さっき、アルベルトさんが来て、グロウクンを殺すって言い出して・・・」
「えっ・・・？」
驚くシーラにかまわず、アリサは話を続ける。
「それで、申し訳無いのだけど、ここの後片付けをお願いね。私は、グロウク
ンを探しに行くから・・・」
一方的に依頼すると、彼女はグローウォームの姿を求めて飛び出した。
「あ、あの、アリサおばさま・・・」
「あ、シーラさんにエルさん、手伝って欲しいっス〜」
日頃からは想像もつかないアリサの行動にシーラが戸惑っていると、奥から
自分の体重の倍の重さがありそうな荷物を持ってふらつくテディが、悲鳴半分
の声を上げた。
「仕方がないな。とにかくここを片付けちまおう。後は、誰か１人、留守番に
して、グロウの奴とアリサを探しに行けばいいだろ」
「え？あ、はい！」
あまりに珍しい出来事に呆然となっていたシーラは、エルの明快な指示でよ
うやく我に返った。慌ててながらも、近くの物から拾い上げ、仕分けようとす
るが・・・
「・・・あら？」
「どうしたっスか？」
「これ・・・香水かしら？」
誰にともなく呟いて、シーラは小瓶を拾い上げた。少なくとも、事務所に置
いておくような品には見えない。
「香水？なんでこんな所に？」
エルも首を傾げる。ジョートショップの住人で香水を使うとすればアリサ１
人だが、彼女であれば自室に保管するだろう。不審な事この上ない小瓶の正体
を明かしたのはテディだった。
「あ、それっスか？それはマリアさんの忘れ物っス！」
「マリアの、だぁ？」
ほとんど条件反射でエルの顔が険悪なものになる。そんな彼女を押さえるよ
うにシーラが問いかける。
「マリアちゃんの？でも、どうして・・・」
「そうっス。一昨日ここに来て、ご主人様に何か相談した時の忘れ物っス」
テディはあっさりと答える。「一昨日」という言葉を耳にした途端、エルの
表情が一変した。
「一昨日だって！？」
「そ、そうっス」
エルの迫力に押されながら、テディはコクコクと頷いた。エルの急変に、シ
ーラは驚いて問いかけた。
「ど、どうしたんですか、エルさん？」
「シーラ、アリサの様子がおかしくなったのは一昨日の晩からなんだ」
「えっ・・・？」
「おい、テディ。一昨日来たっていうマリアは何をやった？」
「ええっとっスね・・・特に何もしなかったっスよ」
「嘘だろ？」
「本当っス！ご主人様がいろいろ聞いたっスけど・・・ずーっとうつむいて、
しばらくすると帰ったっス！」
テディの答えを聞くと、エルは難しい表情で手にした小瓶を目の前に持って
くる。
「・・・なぁ、テディ。マリアが帰った後、アリサかグロウがこの香水を使わ
なかったか？」
「えーっとっスね・・・」
エルの問いに、テディは一昨日の光景を思い出していた・・・